まど猫スケッチ

カメラを手に感じてきた雑感を回想する

写真との出会い

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        (フジフィルム KLASSE)

ここに写っているのは猫である。初めて顔の平べったい東洋人を目の当たりにし、チッポケな額の奥底でどうカテゴライズして良いかわからずにヤヤヤ状態で固まっているのである。

こういうヤヤヤ状態になるときが、猫に限らずヒトであっても時として起きる。

45年前の自分、少年だった頃の自分にとってその瞬間の一つが、ある写真との出会いであった。

通学路の途中の壁に貼られたポスター、その背景をなす白黒写真にはビルが林立する都会の様子が収められていた。

その何がスゴイんだっぺ? であるが、ビルの際立つ稜線、一つ一つの窓枠、それらが遠くから近くまでシャープに写しだされている様に見入ってしまったのだ。小学4年生だった当時の私は、家に帰るとテレビでマンガ(今ではアニメというらしい)ばかり見ていたせいか眼が急激に悪くなり、やぶにらみをしないと遠くが見えない状態にあった。近くは見えても、向こうの看板や標識がクッキリスッキリとはいかない。さりとて、メガネをかけるということは自らをのび太か魔太郎と同列にみなす事と同義であり、自我の目覚めた少年が異形の世界に足を踏み入れるには相当な勇気を必要とする時代であった。

そんな多感でナイーブな時期だったので、このビル林立の写真を見たときに「ヤヤヤ。そうか、写真に撮れば遠くもクッキリするぞ。メガネいらんけんね。」と閃いたわけである。だが、残念ながら自分が写真を撮るということまで直結して考える創造力を持ち合わせてなかった。撮ればクッキリ見える、の中の撮ればの部分が欠落したまま、写真=シャープあるいは目で見える以上にモノの有り様を正確に写しだすもの というイメージが私の中で芽生えた瞬間であった。

写真は見たままを写すだけではない。当時の視力0.6ではボンヤリしていたものがシャキッと露わになるということを通し、見たままを超えてより現実に近づく、それも意志を介さず物理や化学の法則のみで理論的に。という冷徹で鋭利な大人チックな事実に参ってしまったのである。

だが、これは現実を超えた彼方にモノ・コトの別の面を覗きにいくシュール的嗜好とは全然違う。単に、現実をもっと見たい。この性癖は、ド近眼+老眼+二重アゴ+三段腹+五十肩になった今においても、撮ったデジタル写真をマウスでツィーと倍率を上げて一画素一画素までついつい確認してしまう行為となって表れている。

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この小学4年生が成長して現在に至れば、最も解像度の高いカメラを一生をかけて求めにいく、という処にいきついたハズであるが現実はそうなっていない。(いや、そうなっている元小学生もいるだろうが)。

なぜなら、写真の楽しみ方がシャープ一辺倒ではなくなってしまったからである。そうなった理由、カメラが良くても撮り方がわかってなければキリキリした写真は残らないことを今の私なら知っている。レンズの選択、被写界深度の選択すなわちシャッター速度の選択、そこからきて感度やプレの対策、撮ったあとの現像のプロセス、メンドクサイ三脚の使いこなし、鑑賞サイズの問題etc。そうして傷つきながらも大人になった私は、自分にはキリキリした写真を撮る技量も堪え性もないことを自覚している。今回はりつけた猫の写真も全然シャープではない。

しかし、別にシャープでなくても良いと考えるようになった。ということは、現実への執着が無くなったということだ。これは、いよいよあの世の事を考え始めたということではなく、現実のさらなる向こうの現実を求めにいってもキリがないことに気づき、いうなれば今ここに身を置いている現実らしきものとどう関わっていくかということの大切さに気付いたということである。

とすると、現実を切り取る写真への興味も失せてしまいそうだが、そうでなく、写真への愛着はますますもって盛んである。何がそうさせているかというと、2次元でも3次元でもない写真だけが持つ表と裏が一緒になった次元、そこに惹かれている。

フランスにはパリを撮り続けたアジェという写真家がいた。その写真家の作品を見てしまうと、この2次元でも3次元でも、はたまた本人の意志の創出でもない、なんとも写真でしか表せられないモノを感じずにはいられない。

そういう写真を撮りたい。今の私は45年前と同じであることはなく、そういう写真を撮りたいからこそ、今日もカメラを触っている。