まど猫スケッチ

カメラを手に感じてきた雑感を回想する

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ニコンZ7Ⅱ 24-120mm F4

◆上の画像

これはニコンのミラーレスカメラで撮った飼い猫の写真3枚をスマホ(iphone12)に転送し、PictFrameという写真枠設定アプリで一つに集めたもの。知り合いにLINEで猫の様子を知らせるために使った。

 

猫の表情の違いを強調するために、3枚それぞれの後ろの背景を白抜きで消している。

 

白抜き。

ポートレートに代表されるように主題にのみピントを合わせてその周りの景色をぼかす撮影方法があるが、それどころかもはや主題だけ=背景を消してしまうという技である。

 

こうなると、写真というよりもコラージュに近くなる。後ろが写ってなければ真実を表しているとはいえないからだ。

しかし、この真実を表していない加工した有りようだからこそ、実際にその場にいたときに感じた猫の表情の豊かさを伝えられた とも思う。

 

◆伝えるものの中身

私の昔からの頭の中にあった写真とは、自分の目に見えた光景そのままの様子を写し取ったものであった。

 

しかし、そうしようと努力しても、自分の腕、カメラやレンズの性能、フィルムやデジタル素子の限界によってそのままが写るということはなかった。

ボケていたり、光が足りなかったり、逆に飛んでいたり、ブレブレだったり、発色がくすんでいたり。

 

その対処としては、自分が撮り慣れて手ブレ・ピントズレ・露出ズレを減らすことが第一。

それでも、簡易的なコンパクトカメラだと固定焦点&固定露出でどうにもやりようが無いのでそれ相応にコントロールの効くカメラ機材を使うことも必要になる。

そして、その時々で機材を選んできたつもりでいても、たとえば昔の一眼レフの手動焦点のためのスプリットプリズムやマット面はどう転んでも今のミラーレス機の素子単位でピントを検出する自動焦点には精度の点で全く敵わなかった。

 

自動露出、自動焦点、手ブレ補正、高感度での発色向上などカメラ側の進歩に助けられながら見たまんま光景に近づける写真が昔よりも撮れるようにはなった。気がする。

 

それでもイマイチ感はある。ここは、デジタル化の恩恵に授かりパソコンやスマホで色調やトーンをチョコチョコとコントロールして近づける。

カメラで写す前の光景が真実(と思っている)なのに、写した後はそうでないことがある。だから近づける。加工もする。

 

こうした目に見えた光景に近づけるという一点に向かい、私のカメラ趣味は空回りして過ぎていった。

 

で、白抜き。

これは目に見えた光景そのものではない。 これを私はどう捉えたら良いのか。

 

◆写真物

どう捉えたかというと、これは光景ではない、モノであると捉えた。具体的には色んな表情をした飼い猫上半身が写っているモノ。背景が写ってないので写真でなく写真物。

 写真物。 今造った言葉。

 

周りを見渡すと、背景を白抜きした写真物はたくさんある。

amazonのページを見てみれば、猫のキャットフードもニコンの最新型カメラも靴下も

ぜ〜んぶモノの背景が白抜きしてある。そりゃ、モノを知るのが目的だがら当たり前である。

バックが水色やピンク色をしている化粧品ポスターも写真物に含める。

ネットでの買い物が普通になってくると、写真よりも写真物を目にする機会の方が断然多くなってきた。

 

◆写真

写真=背景があるもの という強引な見方がなぜもっともらしく聞こえるかというと、写真は対象をキャッチするのでなく光をキャッチするものだからかもしれない。

 

濃淡も光、色も光、形も光によって生まれる。

そして、光の特徴は、遮るものがなければどこにでも行き渡ること。

なので背景を消すと、この、どこにでも行き渡る光ではもはや無くなってしまう。

 

もう一つの特徴は、光は2度と同じありようをしないということ。時間を内含している。

いやいや、スタジオで照明をずっと点けていれば同じ状態が続く、ように思えるがどこからかもれてくる外光までは制御できない。外光まで閉した中ではどうか? となればそれは時間が消えているといえる。そして、その有り様はすでに写す対象がモノにいってしまっている。

 

絵画とは違う、写真の持つ凄さというのは、この光や時間といった写す側がどうしても受け身にならざるを得ない事象を相手にしているということだと思う。

受け身にならざるをえないのでモロい。しかし、モロいはずなのに成立しているところに何か奇跡に似たゾクゾクを感じてしまう。どうにもならない得体の知れない感じというか。

 

さて。

絵の方が健全で伝え易いという例。昆虫図鑑(昭和45年頃)。

虫の多くは写真でなく絵で描いてあった。そして、ここぞというページしか写真が無かった。カブトムシのオス同士の戦いとかカイコが糸を出している養蚕場の一部とか。

モノであることを伝えるのに写真である必要はなく、むしろ背景がそもそも無い絵の方が伝わり易いのでそうなっていたと思う。そこにはキリギリスもカナブンも絵でしか少年達は知らないのであるが、実物のカナブンをみたら皆がカナブン!と言うほどに、絵は的確に事物を指し示すことができた。

例2。漫画。

ニャロメを描け。と言われて、背景を含んで描く人はいない。大抵は、耳がでかくて歯が一本でのどちんこがあるアレを描くはずである。絵になると時間の観念が希薄になるので、少年サンデーを借りてきて「今日でニャロメは何才になった」とか気にする少年もいなかった。

まあ、漫画とかニャロメとか引き合いに出さなくても、絵画にはuncontrollableな印象はあまりない。

 

そう、絵画は伝わることが第一である気がする。

その伝えたいものが事物なのか、画家の思いなのかは別にして。

これは写真でない写真物にも通じる。

 

写真は、見た時の光景をとらえるもの。そして、光景には時間もふくめ何か得体の知れない自分では制御できないものが入り込んでしまうゾクゾク感があるもの。そのゾクゾクをその場にいた時の気持ちに近く表すことが写真のひとつの方向と思う。

 

一方、写真物は対象を伝えるもの。どちらかというとその心持ちとしては絵画である。

カメラで写した時、それが写し手にとって伝えたいものであればあるほど、それは受け手にとってはオエッチョになることがある。(例。年賀状の子供の写真)

 

◆今

今はゾクゾクよりも伝えることが大事な時代であり、その最たるものがスマホである。

なので写真がどんどん光景である原点を離れて(白抜きはしないにしても)写真物に傾いていっている。

 

そんなことない、軽井沢ナウ!をスマホのレンズでとって送ってくるとき時間がナウ!として刻まれているではないか。といったところで、その時間は撮り手がコントロールというか意識した時間であり、写真本来がもつ得体の知れない光、得体のしれない時間とは別物である。

 

現象学の言葉にアポケーというのがある。その延長でカメラを構えれば、いまよりも自分の納得できる写真をあたかもゾーンに入ったような気持ちで撮影できる日が来るのはないか。

来ない方の確率の方が高いが。

 

23年6月4日。