まど猫スケッチ

カメラを手に感じてきた雑感を回想する

コンパクトカメラのお話(2) コンデジが残したもの

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ペンタックス MX-1

【目次】

 

◆2002年

◆コンデジの特長1  残す前に写真を消せる

◆コンデジの特長2 現像費用ゼロ&現像時間ゼロ

◆ コンデジの特長3 撮像素子が小さくてもかまわない

◆コンデジの特長4 撮影はアイレベルだけじゃない

◆コンデジの特長5 いつでも白黒

◆コンデジの特長6 トリミング自在

◆コンデジの特長7 連写どんだけ~

◆コンデジの特長8 大きな画面でチェックできる

◆コンデジの画質① 解像度:画素は81万画素と300万画素が分岐点

◆コンデジの画質②:周辺画質向上と構図意識

◆コンデジの画質③:白飛び

◆コンデジの画質④:高感度ノイズ

◆コンデジのポイント①:バッテリと撮影枚数

◆コンデジのポイント②:操作は簡単か

◆コンデジが残したもの

 

◆2002年

今から20年以上前のこの年、何が起きたか。

カメラの出荷台数においてフイルムカメラをデジタルカメラが追い越したのである。

EOS 10Dやnikon D70といったようやくアマチュアでも手の届く価格の一眼レフが出てくるのはこれより後の2003年以降のことであり、2002年のデジタルカメラとはほぼレンズ一体型カメラのことを指すといってもいいだろう。 通称コンデジである。

 

カシオのQV-10が出た1995年からわずか7年でコンデジはカメラ市場の主役を奪い更に2008年まで出荷台数は年々上昇する。しかし、2007年に初代アイフォンが登場すると雲行きが怪しくなり2022年には2008年当時の2%未満にまで激減してしまった。

フイルムコンパクトカメラが築いた40年をコンデジは10年ちょっとの超短期間で葬り去ったものの、その後の10年ちょっとでアッという間にしぼんでしまった。

 

しぼんだ遠因として、日本でカメラつき携帯電話が同じ時期に隆盛を極めていたことも関係ありそうだ。送るための写真というコンセプトはスマホに先んじていたものの、当時の通信環境もあってカメラ性能および写真の質はコンデジとは比較にならないほど低かった。自動車と電動自転車みたいなもので、残す写真の側からしたら送る写真は全く敵ではなかった。

ところが、敵は国の外からやってきた。

通信技術発展の波に乗ったスマホ黒船によって、島国のお得意分野2つが2つとも駆逐されてしまった。

 

え。いやいや、駆逐されずに残っている。それを前回に記事にしたので今回は百花絢爛の頃を思い出してみたい。

その時に所有したカメラの一台一台の印象はこのブログの中ですでに触れています。今回はポケーと全体を見渡してみます。

 

コンデジの特長① 残す前に写真を消せる 

QV-10が出た1995年、私は職場所有の1台を借用台帳に使用予約を入れて使っていた。そのときに個人が持つ類のカメラとの想いは全然無かった。320X240画素でギザギザが目立つその画像はまるでビデオカメラの一時停止画面を見ているよう。厳しい言い方をすれば何が写っているかよりも何と何が違うかを記録する程度の装置だった。

とはいえ、パソコンに電子データとして画像を取り込めたことは、確かに記録性を重視する仕事では有用ではあった。だって、写真読取スキャナも一般化してない頃で紙に絵を書いてたのだがら。下手くそな絵と50歩100歩の画質であっても、パソコンの処理に乗るというだけで早さやゴマカシを防ぐ(?)の意味ではじゅうぶん価値があった。

 

が、同じコンパクトカメラでもフイルムの方はまだまだ元気、どころか、一眼レフの領域を侵食するかのように自動焦点の高精度化やズーム領域の拡大が進化していた時代。1994年にニコンが手ブレ補正を搭載するに至っては「もう一眼レフでなくても良いか?」的勢いさえあった。”写るんです。”より遥かに低画質のQV-10が同じ土俵に立つことはなかった。

 

違う土俵の上にピョッコリと現れたQV-10だったが、のちの撮影作法を根底から変えてしまうモノを持っていた。 確認用の背面液晶。 

モノになる前に写真を消すというスタイルはココから始まった。

 

それまでの写真はカメラにずっと留まり続けて終わりではなく、カメラは箱でその先に利用媒体がプリントだったりスライドだったりポジやネガの印刷原稿だったりする。失敗したり気に入らない写真があったとしても一旦は利用媒体に転化しないとその良し悪しはわからない。

ところが、撮ったその写真というか画像を媒体✳︎に渡すことなく即座に背面の液晶で確認したあとで「ポス。」っとその場で消し去ることができたのである。この世の中に何の痕跡を残すことなく消えるのであった。(✳︎ そもそも、QV-10には取り出せる媒体自体がない)

 

これは衝撃であった。一旦は存在したものが完全に消えるのである。

カセットテープの録音を消すくらいなら、もともと音自体が無いようなものと思えばそんなもんかで済むが、実体を写したものが消える。ええのかええのんか。

 

当初は一旦撮った写真を消去する行為には後ろめたさを感じていたが、やがてそれも慣れてしまった。QV-10の前にもデジカメがあったと聞くが、「その場でポスしてもいいんだよ〜。」を可能にする再生確認液晶を搭載したのはこのカメラが初めてだった。

 

コンデジの特長② 現像費用ゼロ&現像時間ゼロ

その頃の写真の一般的なあり方は、写真屋さんにネガフィルムのパトローネを持ち込み後日2〜3日後にL判プリントを受け取るというスタイルだった。L判を受け取って初めて、何が写っているのかわかる。それまではドキドキ。ザ・同時プリントである。

ところが、QV-10はその場で確認できるからこのドキドキも費用も手間時間もなし。ならば、画質がどうあれフイルムカメラは喰われるだろう、なにしろ時短&コスパ最強&手間ナシだから。

とすぐにはならなかったのは画質が低いことだけが理由ではなかった。プリントこそ写真なのだ、というムードの中では「パソコンで見れてそれがどうした?」だったからだ。その先にプリンターで出力するにしても、ノートパソコンがようやくカラー画面になった頃に写真画質を出せるモノなど無かったのである。

それに、ネガの現像だけなら500円以下、プリントも安いところだと(時間かかるが)一枚十五円とか7円とかあり、フイルムも3本で1000円なんてザラだったので毎日家族写真を撮るわけでもなく「写真とはそんなもんだ。」と思える出費に収まっていた。ドキドキ待たされることも、今思えばイライラではなくトキメキを生んでいた気がする。

 

そんな時にプリンターメーカーのエプソンコンデジCP-100を出した。

もう、その狙いは明らかで「家でプリントしてください、写真画質に足るプリンターもご用意しますから〜。ざんね〜ん。」(byギター侍)であった。

私は使ったことないが、QV-10より多い画素数を持つその画像を見せてもらった時は何てド派手な色なのだろうと思ったことを覚えている。プリンターで出しやすい色味といっても良い。

キャノンもポカ-ンとしていたわけでなく、しばらくしてカメラとプリンター(+スキャナ)の2面作戦がこの2社によって加速、お家deプリントが浸透しはじめた。

ところで、CP-100にはQV-10のような背面液晶はなかった。PCに接続しないと何が写っているかわからないところも、フイルムカメラの写真屋さんの代わりにお家deプリントしてよーが狙いだったことを伺わせる。CP-100は撮影用液晶がない代わりに光学式ファインダーを備えていた。この点では、見た目に限りQV-10よりもカメラらしい外観だったが、横にバカでかい割に前面レンズは小さいというヤッチマッタ系のデザインをしていた。

デジカメが職場から家庭に入るきっかけはコンデジ自体の進化もあるが、性能向上していくプリンタ-の寄与も大きかった。

年賀状がインクジェット対応になり、こまっしゃくれた子供達かわいらしい坊ちゃんお嬢ちゃんの写真が元旦を飾るようになってきた頃であった。

 

コンデジの特長③ 撮像素子が小さくてもかまわない

フイルムカメラを先にいうと、フォーマットは一般的に36X24mmでありこれはコンパクトカメラでも同じだった。どうしても暗箱分の前後幅はとらねばならずそれでも小型化しようとすると周辺光量不足や画面の歪曲を招く。フォーマットにはAPSやハーフサイズやポケットサイズもあったが36☓24mmのL判プリントでさえ時により粒子の荒れが目立つためか一般的では無かった。

対して、デジタルカメラは撮像素子が大きければ画質は向上することがわかっていたとしても消費電力や発熱、製造コストの点で36X24サイズが出たのは2002年のコンタックス一眼レフが最初だったかと思う。技術的に一般ビデオカメラに近い小さい画面素子から始めざるをえない事情があった。

技術的に無理なんだから撮像素子が小さくてもいいじゃない、という暗黙の了解のもとフイルムのように画面サイズにとらわれずに済んだコンデジは小さい素子ゆえに被写界深度が深くなることから手ブレやピンボケに対しての素性も優位であったと思う。

 

さらには、撮像素子が小さければ暗箱部分のスペースも小さくなる。これがフイルムカメラではできない小型化とデザインの自由度を生んだおかげで、縦に長かったりレンズ部分が独立していたりとそれまでにない製品が生まれた。

しかし、これらのデザインのいくつかは性能や機能よりも新奇性を狙うあまり、使いやすさを犠牲にしていると思われる物もあった。1990年代はフイルムカメラにも言えることだがルイジコラーニ風をこれぞ人間工学だと解釈したブヨブヨのデザインが流行っていて、どのカメラも針でつつくと黄色い脂肪がジューッと染み出してきそうな感じだったが「これがイマ風。」だったのである。

 

95年から時を長くすることなくコンデジが爆発的に普及した理由の第一はお家deプリントがもたらす利便性とコストメリットだと思うが、フイルムの持つ形や大きさに縛られずに自由な造形で目を引いたこと及び素子が小さい事でピントや手ブレの点で画質有利だったこともあると思う。

 

コンデジの特長④ 撮影はアイレベルだけじゃない

QV-10はレンズ部分をボディに対してクルクルと上向き下向きに回転させることができた。液晶ビューカムなどビデオカメラから来た機構だが、それまでのカメラではファインダーを覗くのが当たり前、アイレベル視点が当たり前だった認識を変えてしまった。これも、フイルムに割くスペースに縛られることがない設計自由度がもたらしたものであった。

カメラ単体だけでアイレベルにこだわらずに撮影できる、してよい というこの新しいお作法は今でも撮影液晶のチルト機構やバリアングル機構に受け継がれている。

 

コンデジの特長⑤ いつでも白黒

ピント。絞り、シャッター速度。その組み合わせからくる露出。一眼レフやズーム付きコンパクトカメラならば加えて画角の変化。写真の出来上がりをイメージしてカメラで出来ることはフイルムカメラでは限られていた。

イメージに大きく関わる色味についてはカメラでなくフイルムが担うものであった。ところが、コンデジは①像をキャッチする機能も自身の中に含んでいる②像はデジタル的に後処理されて生成される ことから、色味を自在に操ることを可能にした。

 

フイルムを入れ替えなくてもカラー写真になったり白黒写真になったりする。

ええ!! なんですとー!! デーベロン!!

「俺はモノクロ派だからF3にはネオパンしか入れてねーゼ。カラー?そんなものはこっちの”写ルンです。”で十分だゼ。フォッフォッフォ。」なんて格好つける輩がいなくなった。カラーで撮った写真を元にコピーして白黒に変換なんてこともできた。アンセルアダムス泣いただろうなあ。

 

また、フイルムを入れ替えなくてもISOを高感度に設定できる。

ええ!! くるくるバピンポパペッピポ!!(だったっけ?)

感度を上げるとコンデジでもフイルムと同じく画質は荒れるが、フイルム時代の永遠の呪縛テーマ「旅行では画質優先でISO100かそれとも旅館の中も撮るだろうし400にするか考えすぎて前日夜に眠れない」から解放された。まあ、悩んだどころでフイルムのコンパクトカメラだと手ブレとピンボケと逆光真っ黒が70%の時もあったが。

 

さらには、ホワイトバランスを調整できる。

ええ!!巨人軍の4番ホワイトの何を調整するの?グリップ位置? ではなく色温度を変えられる。

これも、同時プリントだとオヤッサンの腕一本に頼らざるを得なかった。オヤッサンが釣りにでかけて奥さんが代理すると逆にそっちの方が色が良かったりした。(オヤッサン、ごめん)

 

コンデジの特長⑥ トリミング自在

一般にフイルムのコンパクトカメラではプリントに写っている物と写真を撮った時に見た物は同じであった。そんなこと当たり前のようだが、そこには「撮った範囲全てをプリントする」というお決まりがあった。

本当は動物園のゾウさんの顔だけを撮りたくても、カメラで見える範囲の中に飼育員さんや隣のカバさんとかも入ってきてしまう。プリントをゾウさんの顔だけにすること(ザ・トリミング処理)など思いもつかない。同時プリントではそもそも「ね、ゾウの顔だけ引き伸ばしをお願い。」なんて注文できない。フイルムに何撮れてるか自体がわからないから。出来てきた掌にのるL判プリントの中でゾウさんを見つけ出し更にその顔が5mmくらいしかなくても心のバリヤーで飼育員さんやカバさんを消すという高等テクが必要だった。

しかし、コンデジでは撮影終わった写真というか画像に対し自分でグイッと見たいとこだけを拡大トリミングして別写真で保存ということが出来てしまう。コンデジによっては備えるレンズの最大ズームアップ以上の拡大を撮影時においてさえもデジタル的に行えるものまである。

その結果がギザギザのモワモワ過ぎてもはやゾウさんだか実は飼育員さんだったか見分けがつかなくなろうが、ともかく「そのものだけを抜き出す」というのが自在にできるようになった。

 

こうなると、あれよあれよと画素数が増える意味が出てくる。トリミングした時のギザギザ度は画素が多いほど目立たなくなるのである。(スマホの撮像素子が高画素化する脅威というのは実はここにある、とは前回の記事に書いた。)

しかし、これは2つの問題をはらむ。と、某フォトグラファーは語る。

一つは本来は写し手とレンズが担うべきことを、撮像素子に頼ってよいかということ。ゾウの顔が撮りたけりゃバズーカ級の望遠レンズと筋肉をつけよ、でないのか?

もう一つはトリミングに慣れると撮影時に構図をギリギリ詰める緊張感が無くなるが、それって楽しいのか? うーん、楽しくないかも。でも、Z7Ⅱの1.5倍クロップ機能は良く使ってますよ便利だから。てへっ。

 

コンデジの特長⑦ 連写どんだけ~

フイルムのコンパクトカメラで連写機能があったとしても使う人がいただろうか?

まず、連写したいというのは主要被写体が明確である=おのずと望遠レンズ寄りになる=f値が暗い=普段以上に手ブレする。そうして連写できたとしても、貴重なフイルムが湯水のように消えては無駄になる。

そんな事考えると、そんな連写オタクはいなかったのでは?

学芸会や運動会はどうする と言われたらビデオで撮れば良い。で終わっていただろう。手ブレ補正はアッチが先だし。

 

ところが、コンデジだとISOを自由に上げることで手ブレも被写体ブレにも対応し、且つフイルム代がかからない。バッテリーが果てるまで連写どんだけ~が出来るようになった。1秒で10枚撮れるものまで出てくるようになった。

「待てよ、それならビデオ積んじゃえ」でコンデジの格好していながらビデオ撮影できるのが普通になった。

 

フイルムでは出来なかった事がお金をかけずに出来るようになった。コンデジ万歳!

しかし。これ、スマホでも出来てしまっている。しかも、より簡単に。オーマイガー。

 

コンデジの特長⑧ 大きな画面でチェックできる

フイルムのコンパクトカメラを買う人が4つ切りや6つ切りにいつも引き伸ばすという話は聞いたことない。たいていL判プリントまたはそれより小さいE判プリント、あるいはちょっと大きなKGサイズあたりだろうか。

コンデジはプリントはL判といっても、パソコンで見れるので画面サイズでいったらA4やA3並に拡大して見ることがょっちゅうである。フイルムとは鑑賞サイズが違う。

大きな画面でチェックされるのでシャープ感、色の諧調(といってもRGB)が重視されレンズの粗までわかってしまう。

だけでなく、写真の楽しみ方も変わってきてその粗捜しと紙一重のようなところも少しある気がする。

フイルムカメラ、ましてやコンパクトカメラでは気にしなくて済んでいたことに目が向くようになったのは果たして良いことなのだろうか と思ったりするがパソコンやタブレットとの親和性が高いコンデジゆえ仕方のないことと受けとめる。

 

コンデジの画質① 解像度:画素は81万画素と300万画素が分岐点

デジタル=ギザギザのイメージを体現していたコンデジだったが、97年頃になってそれまでの35万画素から2倍強の81万画素の製品が増えると写真に大分近づいた印象をもった。パソコンの画面でいうと640X480ドットが800X600ドットになった時よりも、それが1024X768ドットになった時に世界がパーッと急に広がった感じがしたのと似ていた。81万画素あればL判サイズのプリントがそこそこ写真っぼく見え始めた。

と思っていたら、あっという間に130万画素、200万画素、300万画素と増えていき、もはやL判プリントには十分な精細度を持つようになった。

以前にフイルム(ネガ、ポジ共)をスキャナで読み込み、取り込み解像度を変えてA4印刷したことがあるが、そのときの印象では400万画素以上では見分けがつかなかった。こういう言い方が正しいかわからないが、その時の経験からしたら300万画素あれば従来のフイルム並の解像性能はことプリントということでいうとほぼ近いところに到達したのではと思う。

近いどころか、コンデジで300万画素(パナソニックDMC-F1)あればネガのL判同時プリントで出来たものよりも色の分離、鮮やかさ、シャープ感でフイルム一眼レフ(コンタックスRX+プラナー50mmF1.4)と肩を並べるレベルだったことに驚いた。

一般的に手にすることの多いL判プリントでの画質においては、あっという間にフイルムに並び超えていった感がある。

 

コンデジの画質② 周辺画質向上と構図意識

フイルムの頃のコンパクトカメラと比べて大きな向上を感じたのは周辺画質である。周辺光量不足、像面歪曲、加えて像の流れ。この3点とも良くなった。

さきほども述べたがフイルムでは画面フォーマットが大きい割にレンズが小型であるため、届く光の質を周辺まで保つのは難しいことはすぐわかる。また、撮る方もなんせコンパクトカメラだから写したいものが写っていればよい。そしてこれまたこれもコンパクトカメラだから写したいものは真ん中にもってきたがる。全体の構図がどうの、とかはその先の話でそもそも周辺を気にしない。ということをカメラメーカーに読まれているので周辺画質にこだわるコンパクトフイルムカメラはほとんどない。

コンタックスT3は例外的に良かったがお値段も例外的だったし、画質性能をうたったフジのクラッセは像の流れまでは修正できていなかった。

ところが、コンデジでは撮像素子が小さいため、フイルムのコンパクトカメラと同等の大きさのレンズをつければメーカーがさほど苦労せずとも周辺画質が劇的に良くなった。

 

それで、普通の人でも写真の撮り方が変わってきた。

構図を気にして撮るようになってきたのである。

 

ファインダーや撮影用液晶にパララックスがなく全体を見通せることも一因であるが。

 

コンデジの画質③ 白飛び

現像料タダでありながらフイルムよりも画質が向上したコンデジだったが、白飛びという新たな弱点を抱えていた。

画面の中で明るいところがあるといきなり真っ白に抜けてしまう。明るくて少し白っぽいかな から 真っ白 までの幅というかグラデーションが狭くていきなり真っ白になる。

肉眼で見える実際の印象との違いが最もわかる欠点だった。眩しく感じるのである。

ネガフイルムはどうかというと、スキャンしてみるとわかるがフイルム自体は明るい方向へのグラデーションが豊富であった。しかし、同時プリントというダイナミックレンジの幅から抽出せねばならない機構を通すと実は青空が白くぬけていたりしていたものである。ただ、真っ白になりそうだなと思えば(カメラが調整できれば)マイナス露出補正をかけていた。同じようにマイナス補正をかけているのにコンデジの真っ白限界を見た時は異様な感じがした。写真の中に写した時にはなかった眩しいところがチラホラとあるのである。

 

この白飛びは明度方向へのダイナミックレンジの狭さから来るらしく、ではそれは何によるかというと撮像素子の1コ1コが受け取れる光の容量、それな~に? それは結局面積によるから撮像素子が大きくて画素数がむしろ少なければいいんだよ。らしい。

ということで、同じ解像度ならばセンサーサイズが大きい方が有利。

と某フォトグラファは語るが、私の経験でいうとセンサーサイズよりもそれを使いこなす画像処理技術やデフォルト露出をどこに置くかの方が大きい気がする。

4/3インチセンサを使用したオリンパスの例を出して申し訳ないが、そのカメラで撮った岩合さんの動物カレンダーが出た当初は白飛びのオンパレードだった。それが年を追うごとにオリンパス内の処理技術の進歩なのか気にならなくなった。岩合さんがキャノンを使う前の話。

もう一つは1インチセンサ。コンデジの中では最大サイズにして白飛びにも強いと思われるが、私の印象では1/1.7インチの方が真っ白が眩しくなかった。

そんな自分の体験それももっとも気になる白飛びの扱いを通して、私はコンデジのセンササイズが大きいとか小さいとかを画質の面で気にすることはしなくなった。コンデジという限られた部品、限られた予算、限られた人員で扱われる製品においてはセンササイズによる画質の差は部品だけでは決まらないということかもしれない。

 

ついでだが、デジタルになって暗部方向のシャドーについてはフイルムネガL判だと黒つぶれしていたところが再現できるようになった。この描写は肉眼に近い。しかし、シャドーが撮影時にどう見えたかは実はあまり気にならない。かえってこれまで締まっていた黒がそうでなくなったことで写真の強さが無くなったように感じる。

 

コンデジの画質④ 高感度ノイズ

コンタックスRXという一眼レフとタメをはる画質をL判プリント上で叩き出したパナソニックDMC-F1。であったが、ISO感度を400にすると画質が荒れるという特性を持っていた。

さて、

感度を上げると画質が悪くなるのはデジタルカメラの特性である。なので、どこまでのISO高感度ならば実用的に耐えられるかがカメラの画質性能として重要である。〇〇カメラならISO6400は常用できる。。。

とは良く聞く話。

ここで、ふとフイルムの時を思い出すとそもそもISOの上限はせいぜい1600ではなかったか。常用されていた400も100に比べれば描写に硬さがあり色は浅く粒子も大きい。フイルムだって高感度は得意でないのである。そんな時代からすれば、DMC-F1でISO400になると画質が荒れるといってもフイルムの400が100と違う印象のプリントを出すのに比べれば大きな問題でなかったかもしれない。

また、デジタルカメラは白飛びに弱い代わりに暗部方向の明暗描写には余裕があるので、そこにどうしてもノイズがのってしまう。ではこれもフイルムはどうかと思い起こすと、まず暗部が表現されずいきなり黒におちる限界が早いのでそこのノイズがどうかという話がまずない。そして、黒に落ちる寸前あたりのノイズの量や大きさといったらデジタルどころの話ではなかった。

コンデジが優勢になりフイルムカメラを追い出してしまうと、コンデジ同士の比較に焦点が移りいつしか高感度性能の得意・不得意がホットな話題になった。高感度が得意なカメラほど高速でブレのないシャッターが切れたり絞りを絞ったり出来るので「モノを写しとめる」という写真の成功率があがるのは確かである。では、何を持って得意かというとノイズの少なさと解像感の維持らしい。

しかし、この優劣は近い将来も残るだろうか?というのは、最近ライトルームに追加されたノイズ除去機能は時間はかかるが低感度に近い画質まで変換してくれるからである。他の写真ソフトもそうであるだろうから、やがてカメラ自体の中にも人知れず実装されていくかもしれない。

 

ところで、ノイズついでにフイルムで今思い出したことがある。ネガ現像である。これが丁寧に新鮮な薬剤で処理されたかそうでないかによって、プリント以前に粒子の荒れ方が変わってしまう。現像してくれるお店を変えるとその差がテキメンにわかる時があるくらい。逆にいうと、それも含めてフイルムで撮った写真の一般ピーポーの画質許容度は今よりもだいぶ甘かったあるいは知らなかったのではと思う。

 

コンデジのポイント① バッテリと撮影枚数

私が最初に自腹で買ったコンデジはサンヨーのマルチーズという単焦点のカメラだった。手動のレンズバリアーに連動してスイッチがONになり、形もオーソドックスで撮りやすく気に入っていた。しかしながら、バッテリの持ちの悪さには閉口した。

気温にもよるが、ニッカド単3電池2本新品でも20枚撮れるかどうかの時もあり、フイルムの24枚撮りの方がよっぽど安心して撮影できた。

撮像素子を持つことは色々と電力を消費するのだなと思ったが、6年後に買った画素数が5倍以上のペンタックスコンデジは同じ電池2本ながら100枚くらい撮影できた記憶がある。省電力設計がその間にどんどん進んでいたのだろう。

で、その省電力設計も限界までいったら後は電池自体の高効率化に頼るしかないが、これはカメラメーカーの本業でなく納めている電池セルメーカに委ねることになる。

バッテリと相談しながら枚数を気にしながらというのはコンデジの弱点ではあるけど、今はその克服が悪く言えば他人任せになっている。カメラメーカーが自分達ではどうにも出来ないという意味では、コンデジの宿命という言い方をしてもいいかと思う。

しかし、カメラは小さく軽くしたいのにバッテリを逆に大きくするというのはできる相談ではない。

どうだろう、今はUSB給電できる機能を持ったコンデジが増えてきたからもう一声でネックストラップにバッテリを内蔵してそこから給電ソケットに入れるというアイデアは? これならカメラの重量を気にせず、撮影枚数を存分に確保できる。

(ただ、ネックストラップ内のバッテリあるいはその電極線がむき出しになったときに撮影者が感電バタンキューになる危険性は考えないことにする。)

撮影する瞬間だけでなく、撮影するために電子ファインダーなり液晶なりを見つめ続ける間も電力を消費するというのは考えてみれば無駄な仕事なので、光学ファインダーが、その面から復活しても良いかもしれない。機構が複雑になるから第一の案の方が将来性がありそうだ。

 

フイルムカメラだったら? こっちはCR2電池がコンパクトでは良く使われていた。当時はコンビニでも手に入ったので撮影枚数を気にしたことはなかったが、フイルム10本=撮影枚数240枚も持たなかったのではないか。

それを考えるとマルチーズの時代はともかく今現在のコンデジは結構十分なところに来ているかも。私の場合はコンデジになってからはフイルムと同じモノを撮るにも撮影枚数は2/3くらいに減ってしまった。フイルムだとどう写っているのかその場で確認できないので、どうしてもオサエで撮る分があり無駄的に撮る分があった。ただ、昔ながらのパチパチスタイルで撮るような人間の数がコンパクトカメラであっても減ってきているのかもしれない。パチパチでなくパチパチパチパチ・・・パチ。

 

しかし、撮り方がどうのこうのに限らずコンデジの場合は一旦バッテリが切れるとその充電に結構な時間がかかる。コンビニどころか電気屋さんでも売っていないところが多い。バッテリ自体の値段も高い。このあたりがバッテリの持ちを気にしてしまう理由として大きい。

 

コンデジのポイント② 操作は簡単か

まあフイルムカメラにも共通するが、何のためのコンパクトかというと写真を撮ろうという気を妨げないため だろう。撮るために何処か行く、ではなく、どこか行ったついでに撮る の人達が多く使うカメラであるためには重いよりも軽い方が良い。そのうえで、撮る行為にフォーカスした一眼レフでなくとも撮っている時間が楽しめたらそれは素晴らしいがファーストプライオリティではないだろう。

小ささだけでなく操作性についても撮ろうという気を妨げないことが重要と思う。カメラや写真についての知識が無いと撮れないとなると、そうでない多くの人にとって撮ろうという気は失せてしまう。

電源を入れてシャッターボタンを押せば撮れる。さっと取りだしてすぐ撮れる。

この所作はフイルムカメラだと”写ルンです。”になる。

ここまでに出てきたサンヨーのマルチーズやズーム搭載したパナソニックDMC-F1はそういうカメラだった。だからバッテリの事を除けば使いやすかった。

 

ボタンもスイッチも出来るだけ少なくが操作性には大切だが、実はそれだけではない。

ボディが小さすぎないこと。これも大切である。

しかし、2008年頃のコンデジ絶頂期の頃に、なぜか小さすぎるコンデジが数多く製品化されていた。先にコンデジは素子が小さいのが特徴であると書いたが、だから小さくできるとばかりに小さくしすぎたのではないかと思える製品群である。

これではシャッター押すだけといってもボタンが小さく操作しづらい。背面液晶も同じく小さく、バッテリも同じく小さい=見にくい、撮り続けられない で3重苦である。

そんな時にスマホ(asカメラ)が出たものだから沈没するのは目に見えていた。

スマホは画面タッチといっても操作するところがチマチマしてないしバッテリの持ちはともかく充電に困ることもなかった。そのうえ、画質は写メール携帯の比でないどころか白飛び処理を含めコンデジより明らかに上だし送信時共有もお手のものだったのだから。

シャッター押すだけコンデジが消えていったあとに残った高機能コンデジは、その少し大きいガタイそのままに操作ボタンやダイヤルを減らすのではなく、むしろスマホに対抗するかのようにボディを小さくし逆に機能面のソフトも含めボタン類は増えていったきらいがある。いわく、カスタムボタンとかファンクションボタンとか、何のことかわからない。撮り手が設定しろって、それはメーカーさんの横着にもみえる。

そのうえ、価格の方が大幅に肥大してしまった。

一部のカメラ好きには受けたかもしれないが、ますます撮るのに必要な知識を要求する代物になってしまったものだからこのカテゴリも萎むのは当然といえば当然だろう。

 

今後の希望としては、いろんな事をするための操作ボタンでの設定をしやすくするなんてことではなくて、そんな操作をしなくてもいいことだが、限られたカメラ好きの意見しか吸い上げられなくなった現状からして期待できない。

 

コンデジが残したもの

 

最後に、今まだあるとはいってもスマホにポスッされそうなコンデジが残したものを考察してみる。

 

フイルムからデジタルになったコンパクトカメラが実現したものとは、

自由なデザイン、小さいガタイ、お家deプリント、誰でもアングル自在、誰でも連写、誰でもトリミング、送信性向上(=写メール市場への殴り込み)、一発白黒化を始めとする写真加工、フイルムより明らかに向上した画質・自動焦点・手ブレ補正、構図意識の啓発 みたいなところか。特に最後の構図意識はそれまでのコンパクトカメラユーザにはあまり無かったと思うと、縦横比を3:2や4:3だけでなく1:1や16:9に選べたりと「写真の枠感覚」そのものを一変してしまったので一番意味があったと思う。

実現したものはそうだが、では残したものはというとコンデジ自体が無いに等しいのでどう答えたものか。

 

あえて答えると、残したものはスマホのカメラ機能 になる。なんのこっちゃ。

スマホが単純に撮影性能としてこれだけ簡単にしかも良く撮れるのは、単なる「カメラ機能をつけました、送信できます。どっちかつーとビデオに使って欲しいな」で済まさずに、一般の人が喜ぶ写真とは何かを理解していたためだろう。そこにコンデジの弱点が反面教師として生かされたのである。

コンデジは喜ばれる写真とは何かを詰める間もなく、ライバル同士の何でもできます競争に巻き込まれてしまった。もちろん、写真が像の後加工で完成するという性質上、スマホほど高性能のCPUを搭載できないハンデの分は差し引かねばならないが、残した爪痕は大きい。コンデジがポスッと無くなりそうなだけでなく、60年以上続いたコンパクトカメラという言葉自体も無くなってしまうことにつながるのだから。

 

以上です。

 

23年8月23日。