コンパクトカメラのお話(3) 記念写真+α
◆フイルムで撮る
デジタルカメラもカメラ付き携帯もなかった頃、写真といえばフイルムだった。普段は24枚撮り1本しか使わなくても旅行に出る前には36枚撮りのフジISO400を2本奮発。ところがパチパチしているうちに使い果たしてしまい、仕方なく観光地の売店で3本だけ売っていたコニカの12枚撮りを3本とも買ってその場をしのぐ。そしてプリントに出したときに、急いで買ったフイルムがカラーでなく白黒だったことに気付き驚愕する。
そんなフイルム時代のコンパクトカメラの事を思い出してみたい。
フイルムといっても、一般ピーポーが手にするのはもっぱらカラーのネガフイルム。それをクリーニング屋さんのオヤッサンが扱う同時プリントに出して受け取るというのが昭和の心象風景だった。
そして、そのときにオヤッサンが目にした数々の思い出写真はメイドインジャパンのコンパクトカメラで撮影されたものだった。
◆超高速 コンパクトカメラ技術史
オリンパスペン。このハーフサイズのカメラを父親が遠い昔に持っていた気がする。しかし、それを当時4歳の小僧がいじくるわけにもいかず、どんなものかはさっぱりわからない。
そこで、ここでは多感な思春期を迎えた頃から見聞きし経験したコンパクトカメラの流れを振り返ってみることにする。順不同。
1)フラッシュを内蔵した! ストロボ持たずに室内を撮れる。
2)ピントが自動で合うようになった! これぞ夢のカメラ。
3)フイルム送りと巻き上げが自動になった! 撮れてなーい を減らした。
4)自動格納のレンズ保護✳︎がついた! キャップしたまま撮影 が過去へ。 ✳︎ヒャクメルゲに見えるアレ。
5)レンズが電動沈胴式になった! より小型、よりカッコインテグラ。
6)2焦点レンズが付いた! 画角チェンジが楽しめる。
7)ズームレンズがついた! ますます一眼レフに肉薄。
8)手ブレ補正がついた! レンズ一体だからできたこと。
1から4まではピーポー目線で如何に失敗なく楽に撮れるかという方向。5は持つ人をダサい→イカすに変えた魔法。6と7はとうとう一眼レフの領分に足を踏み入れ、8に至ってはその踏み入れた足が超えてしまった瞬間。
技術的には一眼レフに先んじて実現した自動焦点が画期的だった。最初は近・中・遠の3段階くらいしかなかったが、次第に7段階、20段階と精度が向上していくにつれてレンズ性能も負けじと向上していった。
また、レンズが電動沈胴式になったことのインパクトも思い出深い。コニカビッグミニを見て、使わない時にレンズが飛び出してないだけでこんなにスッキリするものかと思った。
それまでのカメラはザ・男塾みたいな形が標準だったが、ビッグミニ以降はフェミニン路線も含めてデザインの間口がパッと一気に広がった。
◆主要用途=記念写真
大量のコンパクトカメラで、これまた大量に生み出されたもの。それが記念写真であることは想像に難くない。いわく、「熱海行きました〜」「読売ランド行きました〜」の類である。
まあ、熱海はわかる。青いはずが白飛びした空。旅館の門の前に立たされている子供(遠いために兄と弟の顔は判別できない)。ほんの少しだけ見える海はぼやけている。そんなものでも記念写真として成立している。
しかし、読売ランドになると、コーヒーカップの回転は緩いにもかかわらず日暮近くでシャッター速度が遅い上にオトーサン自慢の手ブレ効果(手ブレ補正ではない)が入るものだから単なる抽象画の体をなしているに過ぎない。何が写っているかわからない。にも関わらず、記念写真として成立している。
記念写真というのは場所や時間の記録写真とは違う。
何時どこにいたかの痕跡を残すのなら記録写真だが、記念の念は念を押すの意味だととらえれば写りがどうであれ構わない。そこでシャッターを押したという行為が家族共通の頭というか念として残ればいい。からである。
え。それでいいの? まわりの人が見たらさっぱり何を撮ったかわからないのに。
いいんです。 なぜならば、記念写真を撮る時に周りの人に見てもらおうとか、そんな平成野郎(令和野郎含む)のような姑息な事は一切考えていない。自分たち、あるいは自分だけで念として残っていれば良い。ユリゲラーにTVの向こうから波動を送ってもらう必要もない(送ってもらったけど私の目覚まし時計は止まったりしなかったし。)
さらに暴言すると、しょせんはコンパクトカメラである。大判カメラと三脚で撮っているわけでなく、撮ったよ=そこに確かに行ったよの実感を残せたらそれで良い。
コンパクトカメラの意義は撮った写真の画質うんぬん機能うんぬんよりも、自分の生の一瞬をシャッターを押すことで念に残す、そのコトを成立させることにあった。
コンパクトカメラで撮る写真はスタンドアロンであった。
◆スタンドアロン と 送信共有
スタンドアロンとはパソコンの話でいうとネットや回線やマザーCPUから切り離され1台だけで完結しているパソコンのことだが、この言葉を聞くとランボー怒りのアフガンのポスターがいつも頭に浮かぶ。ええと、シルベスタースタローンとは別である。
で、フイルムコンパクトカメラは1台1台が全部スタンドアロンである。通信手段がないんだから。どころか、ケーブルをつなぐところがないのだから。
撮った写真をすぐヨソの手に渡すこともできないし、もちろん後の加工をしようなど思いもしない。こういうことが出来ることを前提に成り立つ令和現時代の写真のあり方とは違う。
スタンドアロンといっても、一眼レフでは単にコトを念として留めればいいわけではなく綺麗にありのままに残せたらの願望を満たす道具として期待してしまうが、ここでもしょせんコンパクトカメラである。ラクであることがベストである。
で、ラクであることベストを志向するコンパクトカメラは最も写真らしい写真が撮れたりする。
というのは、はなから画面全体をガチガチにコントロールしてやろうなんて意識がサラサラないから気にもとめてなかったものが写る。このちょっと不気味ともいえる部分は、全てを筆という道具でコントロールしてキャンバスに向かう絵では表せられない写真独特の面白さである。念には意識だけでなく無意識も含まれるから、まさに記念写真が撮れている。
一方、今の送信共有ありき後加工ありきの写真のとらえ方になると、コンパクトカメラいやスマホで撮った写真であってもどうしても意識化されたモノになってしまい無意識が入らない。
とはいえ、一眼ミラーレスでRAWで撮ってそれをライトルームでバリバリにいじる楽しさは全能感を満たし創造性を刺激してそれはそれで大変楽しいのも事実。でも、写真本来の楽しさというより絵を描く楽しみに近いのかもしれない。
◆好きだったフイルムカメラ
なんか偏屈なジジイらしい堅苦しい文章になってきたので、ここで話題を変えて自分がいじって好きだったコンパクトカメラを2つ書き留めてみる。
カタチが好き、その製品としての仕上げが好き、画質が好き、画角が好き、操作感が好き。
そして何よりもレンズの輝きが好き。本当に宝石のようにキレイで、これは相当画質が良いなと予感させるのだがその通りなので参ってしまうカメラであった。
次に好きだったもの。=コニカのビッグミニの3代目。
画質やレンズの輝きといったコンパクトカメラ意義とは少し違う部分はエスピオミニに軍配があがるが、なんといってもこれぞコンパクトカメラという風情が素晴らしかった。持った重さも空気スカスカでもなく石のように重いわけでもなく重心の座りも良く最高。
では、すでに手放したこの2つのいづれかを物色しているかというとそれはない。
道楽するにはフイルムの値段があまりに上がり過ぎてしまった。
加えて、ラクに撮るというコンパクトカメラ意義に照らしたらコンデジの方が遥かに良い。ニコンのA-1000という機種でそこそこ満足しているのでフイルムカメラに改めて手を出すことはないだろうと思っている。
◆今
さて、若い人達の間でフイルムカメラが人気という記事を何度か目にする。その真偽はわからないし、真だとしてもその理由をフイルムらしい画質と言われてもピンと来ない。なにせ、フイルムの画質はカメラやフイルム自体が握っていたのではなく、同時プリントのオヤッサンの腕というか性癖が83%を占めていたのだから。
でも、フイルムカメラそれもコンパクトカメラに触れる中で全てが意識化された世界でないことを覗く人が増えるのならそれは素晴らしい。
23年9月1日。