まど猫スケッチ

カメラを手に感じてきた雑感を回想する

その22.クラッセ 終着点

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◆出会い

デジカメlumixがみせた高画質に驚き、フィルムとして挑んだ京セラTズームがあえなく敗退(注:超私的体験)した後のこと。まだまだ負けないフィルムカメラがあるはずと信じ、手にしたのが富士フィルムのクラッセSです。購入資金にはコンタックスT3を売却して充てました。どちらも単焦点焦点距離もT3の35mmに対し38mmなので買い替える必要ないともいえます。というか、あれ、なぜ買い替えたのだろう。冷静に今考えると理由がわかりません。貼り革調のボディにフィルムカメラらしさを感じたのだろうか。とにかく、これが最後に使ったフィルムコンパクトカメラになりました。

◆デザイン

ダイヤルが多く、ボディに貼り革をしていることから、昔のカメラに近い雰囲気があるようにみえますが実際に目にするとそれほど懐かしさを感じないデザインでした。その一番の理由は、レンズの基部にあたるところが左右対称でなく、向かって左側が斜めにさがっているところ。そこには機械ならではの機能性が無く全体のまとまりを破綻させている気がしました。設計の自由度を誇示するかのようにいろんな形のデジカメが世にあふれた結果、人が落ち着くデザインの在り方が忘れられていた頃。なんで斜めの線?という疑問は消えずとも、当時においては特に悪いわけではありませんでした。

気に入っていたのは、前面に露出補正のダイヤルがついていること。視認性が良いだけでなく、慣れればカメラを構えた時の左手の当たり方で露出補正をかけているか否かがわかりました。 

カメラの大きさや重さはスナップを撮影するのにちょうど良く、ああ、これが普通のカメラの感覚だなと思いました。

富士フィルムらしい高画質

写してみると、解像度が高いというより、細かな線まで丁寧に拾う。それでいて色味もはっきりしていて濁りがないので、繊細で美しい描写が得られました。ティアラズームに似た描写でさらに画像のゆがみがない印象です。

時として周辺光量が足りなくなることを覗けば、ぱっと見たかぎりでは一眼レフで撮ったものに匹敵する画質です。T3と比較すると、色の分離がより明確であり細かな線が柔らかく乗るところに違いがありました。

同時に京セラのTズームも持っていたので、フィルムコンパクトカメラ同士で同じ被写体をとったりすると「これが同じフィルムカメラなのか」と唖然とするほどその差に驚きました。入れているフィルムが根本から違うのだろうかと思いたくなるほど、単に像がシャープだとか色がキレイとかいうことでなく、粒子感がまるで違うのですから。

◆一点、気になるところあり

しかし、写真1枚を集中し良くみてみると、一つだけ気になるところが見受けられました。それは、画像端の像の流れです。一度気になると たとえその範囲がすごく狭い領域の端に限られるとしても、中央の画質が素晴らしい分その対比として目についてしまう。しかし、やがて、それもレンズの味の一つと許せるほど全体の画質は好ましいものでした。

◆時代が時代だったら

もし、この2007年という時にデジカメがなかったなら、ズームではないが写りも操作性も良いカメラとして足跡を残せたかもしれません。ところが、すでにデジカメが実用的にも画質的にも広く行きわたった中で単焦点一本で勝負するのはきつかった。フィルムでないといけない必然性よりも、デジカメであることのメリットが、デジタルの情報親和性というだけでなく画質追及の面でも見え始めた頃だからです。例えば、デジカメなら簡単にホワイトバランスをいじったりモノクロにできるが、これはフィルムがしていたことをカメラが横取りしたようなものです。受光素子が小さくても済むのでレンズも小さい=大きなレンズの必要はない=安いガラス材料費で凝ったガラス形状をコスト内でつくれる。だからレンズ性能自体も向上している。暗いところでは、手ブレを我慢するか三脚持参しかなかったのが、ISO感度をカメラ側であげて対処できる。 集積回路はカメラを作動するだけでなく、シャープネスをかけたりノイズを減らしたり周辺光量を補正したりと積極的に画質に関わるようになりました。

画質追及を謳い、その性能を有するクラッセではあったが、画質はデジカメを完全に凌駕するほどではない、となると勝負が成立せず。あとは、他との比較など気にすることなくフィルムを愛し続けるオジサン達しかいませんでした。

◆最後のコンパクトカメラ

それでも、クラッセが最後のコンパクトカメラです。似た大きさのデジカメはあるが、それらはコンパクトデジカメであってコンパクトカメラではない。

カメラというのは、光をフィルムという別媒体にブチ当てる機械という認識のもとでは、ブチ当たる側のいわゆるCCDなりCMOSが別物でなく自分自身という製品はカメラでなくカメラ+媒体なので純粋なカメラではない。プリントするために中からSDカードを取り出しても、SDカードに光がブチ当たっているわけでないのでフィルムの代わりとはならない。という、独断的な定義づけのもとではデジカメはカメラとはいえないものなのです。さらにいえば、カメラというのは動作するものさせるものであり、画質を決める、というか光と戯れるのはレンズとフィルムです。そこにデジカメは集積回路をもって、積極的に光を制御するようになった。人の力の及ばないと思っていた光の戯れを、人の力で操作可能にしてしまったデジカメに対し、フィルムの化学反応をコントロールするにしても成り行き任せだったフィルムカメラとは光に対する畏怖の度合が違います。

なので、光を敬い、共に戯れることの楽しさを残した最後のコンパクトカメラ、それがクラッセでした。このカメラ以降、フィルムカメラは急激にしりつぼみになっていきます。 しかし、光を制御しきらないというフィルムの感覚は、裏からみれば全てを制御できると思いあがらない時代ならではの健全な思いだった気がします。

◇次回:もう一つのフィルムカメラ。老眼にはきついカメラ。でも、実は安くしすぎたせいでは。疑念晴れず。