まど猫スケッチ

カメラを手に感じてきた雑感を回想する

その15.マルチーズ デジタル降臨

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 ◆出会い

フィルムスキャナをアリアと共に使っていくうち、一旦読み込んでしまえば情報として何にでも応用が利くデジタル記録の便利な面に気づきました。たとえば、音楽CD-Rの表面に写真を印刷したりしてましたが、四角い写真を丸い円盤に切り出すなんてフィルム現像の頃には思いつかなかったことです。

そうしてデジタルカメラにも目が向き始めた頃に、電化製品メーカのサンヨーからDSC-X100が発売されました。起動してから撮影するまでの操作が単純で早く、電池も当時多かった単3電池4本使用でなく2本で済むこと、8Mバイトのスマートメディアに50枚近く記録できることにメモ用途への可能性を感じ購入しました。

写ルンです。のデジタル版

その頃のデジカメには200万画素を超えて画質優先をうたったものもありましたが、この愛称マルチーズは1024×768の80万画素、レンズも43mmの固定焦点で絞りがF2.8とF8しかなく狙いの方向は画質よりも起動から撮影までの速射性に置かれたデジカメでした。表にあるレンズバリアが電源スイッチを兼ねていて、開くとすぐに撮影ができます。フィルムが無いので巻き上げの時間を待たずに次の撮影に移れます。

マクロモードがあったりISO感度が選べたりビデオが撮れたり当時のデジカメのツボは押さえてますが、使っている感覚はフィルムの写ルンです。に近いです。レンズが小さくてボディから伸び出したりしないこと、そして厚みが結構あることなど。一方、金属外装でズッシリした密度感はさすが電子機器という感じがしました。

デザインをみると、前からみて一番右端にレンズがあるところにデジカメらしさを感じます。フィルムカメラだったらここはフィルムが入るのでレンズは中央に来るのだが、そういう制約のないところがデジカメらしい。また、逆に制約の無さから今までにないカタチのデジカメも多かった中、このマルチーズはシャッタの押す位置やカメラの構え方などそれまでのカメラデザインの延長にあり、フィルムカメラを覚えている手にとっては使いやすかったです。

画質はメモとしてみるには色味も自然で不足ありませんでした。デジタルとしての写真の像はスキャナ読込で十分満足していたのでデジカメに高い画質を要求してませんでしたし、イメージセンサが小さいため固定焦点でもそこそこピントが合うおかげでその場を記録する用途には十分でした。ただ、電池の持ちが心許なく感じたことはありました。

◆3:2と4:3

フィルムとデジタルを分かつものとして、撮像する仕組みや記録の媒体、使う目的、経済性、デンキ依存度等いろいろ出てきますが、なんといっても縦横比の違いが大きかった。135フィルムは3:2ですが、当時のデジカメは4:3が標準でした。

たったこれだけで、昔の3:2に慣れた身からすると写真らしさがだいぶスポイルされた気がしました。なぜなら、4:3というのはパソコンやテレビのフォーマット。これはテレビの一コマを抜き出したもので写真ではないと言われたらそう思ってしまう。

光景を切り取る時に、あれ、縦が長いな、と思った瞬間に別の感覚がどうしても出てしまう。ということで、さきほど写ルンです。のようだ と書きましたが4:3の画角というところは違和感がありました。

ところが、デジカメも3:2が主流になりテレビやパソコンも16:9などの横長が一般的になった現在、手元のパナソニックLX100を4:3にしてみると、これがなかなか見るものを収めるのに扱いやすい画角であることわかりました。デジカメ出始めの頃にはテレビくさいな思った4:3ですが、そのフォーマットのテレビやパソコンがなくなった今、逆に新鮮さが出てくるから不思議です。

◆今に残したもの

このカメラは、デジカメなので光学ファインダを覗かなくても背面液晶で撮影範囲を確認して撮れます。これをするとすさまじい勢いで電池が減ってしまいますが、ファインダを覗いたのではできない大きなメリットがあります。

それは何か、というとカメラを目の位置まで持ってくる時間が要らないということです。ファインダに目をあてながら電源を入れるよりも、手に持ったカメラの電源を入れてからファインダまでカメラを持ってくるのが自然ですが、そうするとその分の時間がかかります。それで撮れるものが撮れなくなるというわけではないが、電源いれてすぐに範囲を液晶で確認したと同時にもう撮影が済んでいる。気持ちがいいです。

しかし、これもレンズが沈胴式だとリズムが崩れます。ウニョッとレンズが電動で伸びる時間というか間が、散歩中の猫が草をツンツンするのを待つのに似た気にさせるのです。マルチーズ沈胴式でなくズームでなく、さらにピントさえもが動かないためパッと撮れる。

最近のデジカメはどれも沈胴式のものが多い。目元にカメラを持ってくることなく範囲を確認できる液晶があるにも関わらずパッととれるリズムを感じさせるものはほぼ無いに等しい。レンズが目を覚ますまでの作法を待たねばならないわけです。

ということは、デジカメはこの20年の間にカメラの機能の一つである瞬間メモ撮りとは離れた方向へと進化してしまったのでしょうか。

実はそうではありません。カメラとは違うもの、それはスマートフォンと名を変えて現在も画像メモとしての役割を引き継いでいるのです。

そして、その隆盛が示しているのは、フォーマットが3:2とか4:3とか枠の中で構成する写真の見方とは全然違う、モノやコトを写し残し外に発信することを目的とするつながる情報機械としてのカメラの有り方です。枠を意識せずに写っている何を共有しあう空気というのでしょうか。

スマートフォンの縦長画面に代表されるように、もう3:2にこだわることは時代遅れだとしても、やはり定められたフォーマットの中で画を構成する楽しみも写真として残っていくことでしょう。いっそ黄金比のフォーマットで写せるカメラが出てきても面白いと思います。

◆今に残さなかったもの

覗く間さえ感じさせない速写性、ナウ!感とは逆に、今に残せなかったものがあります。光学ファインダです。覗く時間がどうのこうのと言う前に、カメラにファインダが無くても構わないという人たちが増えた。今を伝え合う道具として捉えれば、液晶画面の方が普段見慣れているのて使いやすい面もあるでしょう。いや、それでは日中の明るい中では見づらい、保持が曖昧なので手ブレしやすいという声に対しては電子ファインダもあります。いづれにしろ、マルチーズについてたような光学ファインダはニコン、キャノン、ペンタックスの一眼レフとフィルムのトイカメラ以外は姿を消してしまいました。

しかし、それでも光学ファインダの意味はあると思うのです。それは、シャッタを押す直前まで連続的に流れゆく時間を見届けている、という生の安心感でしょうか。シャッタを押して感光材にせよデジタルにせよ分断された後で処理されたモノとは別の、何か音を含んだような空気が届いている。液晶や電子ファインダは時間を分断したものを細切れに見せている(あるいは、見させられている)ため音の部分が消えてしまっている。そんな感じがします。

マルチーズには光学ファインダがあった。だから、シャッタボタンには連続世界を分断記録へと変換する重大な意味があった。その一方、マルチーズには液晶もあった。だから今を瞬間に残すことはできた。しかし、それは「今」を残していたのでなく、細切れに現れては消える過去の中から選別するためにシャッタを押していたのかもしれません。

◇次回:写真はレンズで決まる。だけでなく、カメラでも違った。フシギ