まど猫スケッチ

カメラを手に感じてきた雑感を回想する

その25.K20D デジイチ難しい

a.keyword { border: 0 !important; text-decoration: none !important; pointer-events: none !important; cursor: default; color: #5A5A5A; }

 f:id:olguin:20170729171848p:plain

ニコン様のご乱心

一眼レフ。レンズを交換することであらゆるものを撮影できることが魅力。それはレンジファインダも同じように思えますが、画角の変化や偏光フィルタの効果を覗いただけで確認できるのは一眼レフならでは。プレビューボタンを押せば、絞りによる違いもわかる..というかわかった気になります。

一方、デジカメ。写したその場で、気に入った出来か そうでないかを知ることができ、いまいちと感じたならばすぐにポイできます。現像に関わる手間も費用も掛かりません。そして、写したモノを劣化させることなく情報化して使いまわしするのもラクです。

そして、一眼レフのデジカメ。ここまで来ると、レンズ交換や豊富なアクセサリによってあらゆる写し方を試しながらその場で良いものを選び残すことができる。結果の満足度を優先することからすれば、究極の写真機ということになります。それはわかっているのですが、フィルムを介さない有り様にはパソコン周辺機器のようなイメージが付きまとい、購入にはなかなかふんぎれずにいました。ミラーがバシャと上がった空間の先には太陽エネルギに化学反応するフィルムというナマモノが無いと、あれだけ大仰な形とのバランスがとれないような気がしていました。

ところが、フィルムで撮る一眼レフがいよいよ無くなってきただけでなく、フィルムをジーコジーコ読み込んでいたニコンのスキャナが、マイクロソフトの最新OSであるVISTAに積極的には対応しない姿勢をみせ始めてきました。なんとか誤魔化してジーコジーコしていたわけですが、カメラの雄ニコン様からしてフィルムからデジカメへの移行を進めていることにショックを受けつつ、ここはもう切り替えるしかないと腹を決めました。2008年の頃です。

◆出会い

そう決めたなら、カメラ業界の方向をお決めになられるニコン様の一眼レフを、とは思いませんでした。理由はカッコがどうにもいやはやイカしてない気がしたからです。ではキャノンのEOSは?というと、ELANの頃の良いイメージは持っていたもののEOS7の視線入力をめぐるcold warを経て、「何も儲けさせて差し上げる義理は無いではござらぬか。」と胸の中の侍が言うのでこれまた却下。

第一候補としてSONYのα700があがりました。①まずもって、カッコ良い。②手振れ補正をボディ内に内蔵してるのでレンズを小型にできる。一眼レフのレンズはオートフォーカスに対応した時に小太りし、さらにデジタル撮像素子に光を広げずに届けるために恰幅が良くなり、そのうえ手ブレ補正機構まで内蔵することで最先端メタボ野郎(人間にもいる)になってきていたので、少しでもスリムであって欲しい気持ちから、手ブレ補正だけでもボディ内蔵というのは魅力でした。③Dレンジオプティマイザという諧調拡大機能がある。デジカメ画像の白飛びはコンパクトデジカメを使っていて目についていたので、それが緩和されることは素直に嬉しい。④カールツァイスレンズとの親和性。このネームバリューについては京セラTズームで神話が崩れたものの、あのプラナーの味が蘇るのでは?という淡い期待があった。

ということで、α700一択で業販店に向かったわけですが、帰りに手にしていたのはペンタックスk20Dでした。

それはなぜか、というとα700のボディを握った段階で「あ、これは違う」と悟ったからです。写真機はただシャッタを押せばいいというものでなく、あれこれダイヤルをいじることになる。そうせねばいけないということでなく、そうすることが楽しいからいじるのですが、それがα700ではしっくり来なかった。人差し指が大変窮屈。自分の手のつくりと違う人が設計したのだと感じました。ならば写真機への向き合い方も違うのでは、と。

その横のブースにあったk20Dをいじってみると、こっちは当初その存在すら知らなかったのに手に吸い付くようにすんなり決まる。そこにあったカタログをみてみるとα700同等に先に挙げた②ボディ内手ブレ補正③諧調拡大機能の二つもついているご様子。そして④、カールツァイスではないがエスピオミニで驚愕したヌケの良いレンズ、あの描写が一眼レフで揃うかもという期待。 気づかなかったがα700では外された上部の情報液晶が鎮座しておりなおかつ見やすい。 オオッとなりました。

ただ。①のデザイン、これがモコモコしていてカッコ悪い。特に上からみたり横からみると、何だろうかこの物体は という気持ちになりました。 しかし、手にとると大変しっくり納まる。「装束が今までのカメラの延長である必要はなかろう、これも時の流れ、直に慣れることよ。」と、これまた侍の一言に押され、18-55の標準ズームと共に購入しました。

いつも気にする画質については、エスピオミニの記憶だけを拠り所に、悪いはずはないと自分を強引に納得させました。

愛してやまないニコンFG形とはほど遠いが、それよりも手の納まり感を優先しました。ここの相性が合うならば、写真機に対する考えも近い設計者によって作られたものだろう と思ったからです。設計者の考えは、そのデジカメだけで終わるのでなく、その次にも、そのその次にも受け継がれるものなので、握った時の相性にかけてみました。

◆カンタンに写せるものではない

 デジカメというのは、カメラ単体でなく昔でいうならカメラとフィルムの合体系。一眼レフになると、更にその先の現像調整暗室まで充実している。一台の中に凝縮している分、一台の中でアレコレ自分に合わせていじらないと思い通りの結果はでない。

ということをコロッと忘れ、FG→EOS ELANでラクにキレイに何でも撮れるようになったように、デジイチデジタル一眼レフ)では更に楽チンに撮れるものと思っていました。そのくせ、キレイにするための設定には耳知識を仕入れてきて拘り、adobeRGBに設定したりファインシャープなる精細化処理をかけたりしてイザ写してみたところ...色がくすんで像もくっきりせずキレイではない。

ディスプレイもプリンタもadobeRGBに対応させていなかったので、これは通常のsRGBに設定し直してくすみは消えたものの像のぼやけた感じは残っていました。特に、屋外の晴天でコントラストも明確なシチュエーションで。いろいろわかってきた中で2つの理由が浮き彫りになりました。

一つは、ピントの精度が甘い。ピント合わせを自分でせずにK20Dに任せている以上、合焦の早い遅いについてはそういうものだと思い気になりませんでしたが、ピントの甘さは15年以上前のEOS ELANよりも劣るレベルでした。k20Dのメニューにはピント位置微調整という項目があり、それで合焦の位置を前後に調整したつもりでも、撮影する対象・撮影する距離によってはズレる。どう対応したかというと、一枚とってはすぐ拡大してピント位置を確認し、マニュアルでピントをずらしまた拡大してピント位置をさぐる。たまたま手にした個体だけの問題だったのかもしれませんが楽チンどころの話ではない。実はEOS ELANも同程度に甘さがあったのかもしれません。フィルムの像をスキャナで取り込み拡大するとピントの甘さよりもフィルムの粒子の荒れの方が目立ってくるので気づかなかったという事もありえます。仮にそうだとしても、15年分の進化を「より楽チンに」の方向で考えていたのでがっかりしました。

もう一つは、画像全体にうっすらと黒い粒がノイズのように乗っている。そう言っても、そうでないという人もいるので主観の問題かもしれませんが、例えばニコンの当時の作例写真などはデジカメらしくフィルムの粒子はなくツルツルしているのに対し、k20D は粒子のかわりにゴマよりも小さな胡椒の粒がところどころに浮いていました。これが像の透明感をやや損なわせている一因に感じました。

ついでに、組まれたキットレンズの18-55mmズームについてふれます。フィルムカメラのレンズのように周辺光量がドンと落ちるとか、広角側でギュニュニュと歪むことは無いにしても、解像度が今一つで線が太かった。そして、望遠側に伸ばした時の鏡筒の先がフカフカ動くのもEOSにつけていた28-105ズームから機構的に進化してない印象を受けました。レンズついでに言うと、単焦点として買ったシグマの30mmF1.4との組み合わせが、いやあ、凄かった。ピントは甘いどころか前ピンすぎて全く合わない、露出は絞り値によってマイナスやプラスに大きく振れる、つまり使う以前の問題。これはシグマに個体を送り、ピントだけは治って帰ってきたものの、それまでの期間の撮影機会が奪われたためペンタックスに責任は無いとはいえデジイチを扱う上での難しさを痛感する一因にはなりました。意気揚々とk20Dを伴い出かけた東尋坊の写真は今みても悲惨な像として定着しています。

それでも、レンズを17-70F4ズームに変えたり、シャープネスを初めとする画像処理の設定を施行錯誤するうちにようやく自分の撮りたい雰囲気の写真が撮れるようになりました。ただ、デジタルらしいパキッとした立体感は、その17-70F4ズームの描写の傾向からしても得られたとは言えず、エスピオミニの延長でペンタックス画質を勝手に期待していた心はブラリンコと宙を漂うしかなかった。

デジイチは難しかった。それとも、ペンタックスデジイチが難しかったのでしょうか。

◆フィルムとデジタルの一眼レフ:向き合い方が変わった

フィルムカメラの時は、見た光景だけでなく時間を写しとめる という気持ちが強かった。特に一眼レフには、確実に時を止めきることを期待しているところが心の内にありました。

これがデジタルの時代になると、時をとめる道具は携帯電話のカメラ機能でもタブレットでも良い、カメラでなくても良い。わざわざ重い思いをして持ち運ぶデジカメとしては、相対的に見た光景をより綺麗に残すことへの期待が高まってきました。

◆綺麗 を目指して無いものねだり

何をキレイというかは人によって千差万別なので、画質のパラメータを自由にいじれるようにあらゆる設定項目がk20Dにも用意されていました。ただ、そこまで用意されていても無かったものにキーのコントロールがあります。フィルムのような暗部がストンと落ちた像をデジカメの中だけで手に入れるには、ローキー側に触れるパラメータが欲しかった。

また、湾曲収差補正も欲しかった。というのは、良く使う画角は相変わらず35mm判でいうところの45~55mmの標準域なのですが、これがつけっぱなしにしていた17-70F4のズームだと湾曲が大きい。レンズ側のいろんなムリを抑えてこのような設計に落ち着いたとは想像できるが、デジタルなのだから像を結んだあとにまっすぐになるような補正をk20D内でかけれたら嬉しかったのですが、生憎その機能はまだありませんでした。

そして、キレイな像をデジカメの中だけで完結させるのか、という課題。RAWで撮影し、あとで現像ソフトで好みの画質に追い込む、いうなればネガフィルムの現像みたいな方向に行くか、それともポジフィルムのように撮影時から出来上がりを意識してパチリ=像が完成というJPEG保存に行くか。スキャナでジーコジーコすることに慣れていた身としては、当然にRAW撮影派といきたいところでしたが、k20DでのRAW保存はJPEGに対しベラボーに時間かかるので躊躇しました。

k20DにはデフォルトでJPEG保存しておいて、あとでやっぱりいじりたい画像が撮れたと思ったらバッファに像が残っている間にRAWにも追加保存できる機能がついていました。一見便利なようですが、ファイルの中にRAWとJPEGが、それも同じ光景で併存すると何が何だかわからなくなるので結局使わず。k20DではほとんどJPEG保存の設定で撮影していました。RAW保存がもっと早くできないか、といつも感じていました。

このように、K20Dは使うほどにこうあったらいいのにという部分が出てきてたのですが、それは逆から見たら、どういうデジカメが自分にとって望ましいかを体験を通じて教えてくれる先生の役目も果たしていたわけです。

◆それでもペンタックス

思い返せば不満ばかりが浮かんでくるのに、2017年、今、同じペンタックスのk-3を唯一の一眼レフとして持ち歩いています。それは新機種が出るたびに必ず過去の不満足点を修正してくるこのブランドの恐るべき実直さに対する感嘆と敬意、それとk20Dの頃から続いている「諧調が深い」という画像の特徴にあります。RAWで撮影してみると歴然ですが、JPEGでも多少はわかります。諧調の上限方向に対し相当な余裕をとった像になっているので調整がし易いのです。これはかなり意外なことで、ペンタックスの画像は基本的に派手な発色をしているので諧調の調整は難しいと思うのですが、そんなことなくグイグイと現像ソフトでいじれる。撮ってからの楽しみがあります。

そして、手になじむ形状。これはk20D以降も変わりません。そして、レンズも小さいもの(というか昔のフィルムカメラのレンズサイズ)が多いものだから手から重心がはみ出すことは少ない。

結局、ペンタックスを使い続けている理由は何でしょうか。

他メーカのようにボディも肥大・レンズも肥大・ついでに価格もこっそり肥大 それがイヤならミラーレス というようなマジックをかますこと無く、手でこっそり握りシャシャシャと撮る、という小型一眼レフの旨味を今にして味わうことができることにつきるのかもしれません。キャノンでもニコンでも例えばkissのように小さいデジイチはあるが、あれは手におさまりこそすれフィルムカメラをいじっていた時の握る感触とは違う。軽すぎてつまむ感じに近い。レンズという宝石の付いた精密機械をあえて無造作に握り込んでいる快感に浸っていると、キャノンFTbを握っていた頃から自分の写真にたいする意識が継続していることを「ああ、根っこは何も変わってないのだな」と今なお思い起こさせてくれる。そこが嬉しく愛おしい。

◇次回:コンパクトデジカメ再び。パナソニックが先かLUMIXが先か。