まど猫スケッチ

カメラを手に感じてきた雑感を回想する

その24.クールピクスP5100 正常進化

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◆出会い

エスピオE30を便利なメモ記録機として使っていましたが、もう少し見やすい液晶のものはないかと感じていました。画面に目を正対させなくても何を写そうとしているか見えるもの。そこで、広視野角をウリにしていたP5100を見つけました。

画面フォーマットに4:3だけでなく3:2が用意されていたり、光学ファインダを備えていたりと、フィルムを使っている時に近い感覚で撮影できそうな気がして、ヨドバシカメラで半ば衝動的に買ったのを覚えています。

◆出で立ち:大人のためのデジカメ

おおまかな形はエスピオE30に似ています。電池室、ストロボ、レンズ、これらのおさまるレイアウトが同じなのです。ところが、金属ボディの黒く硬質な塗装の品質、液晶の左右に振り分けられた各種ボタンの押し心地、メニュー階層の表示の仕方等は 当時のニコン一眼レフに連なるものであり、小さなお子様は手を出せないような威厳がありました。

特に液晶の左側に配したボタンは、最近では一眼デジカメでさえ余りみかけなくなったレイアウトですが、これがあるおかげで「両手で扱うデジカメ」としての品位が見た目から生まれ大人っぽさが漂います。右側だけにボダンが集中し片手で扱えそうなデジカメだとなんとなくスマートフォンに似た軽さをイメージしてしまうが、左手で操作することを前提にしているこの形は「吾輩は精密な超高級機械だから両手で大事に扱ってくれたまえ。えっへん。」がにじみ出ていて好きでした。実際、使いやすかったです。

この他にも、アクセサリシューがついていたり、35~124mmのズーム域で足りない画角に対応すべくテレコンバータやワイドコンバータをラインアップしたり、システム的な使い方も志向している点も大人の佇まいを感じさせるものでした。感じただけで、外付けのストロボをつけたりはしませんでしたが。

全体に黒や灰色を身に着けた大人の男を連想させるデザインでしたが、一つだけ趣味の違うところがありました。それは、シャッターボタンやダイヤルのヘリにメッキシルバが加飾されていたことです。シャッターがメッキメキしていると、写真の撮影をヨソの方にお願いしたときドコを押せばいいのか言わずともわかるので便利ではあるが、黒づくめの中でココだけ鏡のように光っていると安いネクタイピンをしているように見えました。ということで、このメッキ部分はマジックインキで入念に塗りつぶす。すぐ剥がれる、また塗る という不毛な作業を繰り返してました。

◆やっぱり 光学ファインダは嬉しい

小さいながら、このP5100には光学ファインダがついてます。目を正対せずに済む見やすい液晶があるだけでも大きな進歩ですが、この光学ファインダを残していることには別の価値を感じました。

というのは、光学ファインダから導かれる光景は、撮像素子という媒体によって一旦信号に変換されたものを2次的に見るのとはやっぱり違う。液晶画面では、見ている実体が平面であって立体ではなく時間も1/30秒や1/60秒といった離散的に分断されているので、「見ている」という感覚ではなく「どう写るか」だけに意識が集中し覗いている気がします。これが光学ファインダだと、ズームして画角を変えたりファインダそものの歪みがあったりすると実際に見ている光景と変わることは変わるが、それでも奥行きは奥行きとして連続的な時間の中で届くので「見ている」楽しさがあります。「見ている」というのは、目の前にある表の部分が目に届くだけでなく、ウラ側にあって目に届かないモノがあることを実感しているような感覚です。光学ファインダを少し横にずらせば、その見えない部分が連続的に見えてくることで、モノがそこにあることを認識しもっと覗いていたい気が沸いてくる。写ルンです。の簡単なファインダでもそうです。媒体を介在せず素通りであるため、モノを奥行きとしてリアルに認識している嬉しさや安心感があります。

P5100のファインダ自体のデキという点では、小さすぎて目を合わせるのが難しく、また、フレームの枠よりも2割増し以上の範囲が実際に写るなどフィルムコンパクトカメラのものに比べむしろ劣っている印象を受けました。しかし、この小さなデジカメの限られたスペースの中にあえて残したことに、ニコンというメーカが写真を撮る楽しさの中には「見ている」楽しさもあることを理解してくれている気がしました。

感覚的な話だけでなく実用的な面でいえば、背面液晶が日中の明るさの中で見づらい時に光学ファインダは重宝しました。ただ、そのことだけなら液晶ファインダがこの頃にあれば代用は効いたでしょうが、撮像素子を介在するゆえのホワイトバランスのズレ、これが大きすぎると違和感が撮影意欲の減退につながる事があります。

素通しで見たままの色が見える光学ファインダの価値は、前述のモノの奥行きウンヌンの話を持ち出さなくても、覗いた色をアレ?と思わず(=意識せず)光景に向き合える点にもありました。アレ?と思わなければ、見た時のスパークを鈍らせずに写真に直結できたからです。

◆いきついた進化のカタチ

このP5100は、写真を撮るための道具として、①小さく、②軽く、③キレイに撮れて、④覗く楽しさを残し、⑤品格があり、⑥価格が安い、とあらゆる軸に照らして進化したデジカメだったと思います。

しかし、それがキャノン以上の販売実績に結びついたわけではありませんでした。その理由として、写真機を求めるときの価値軸を広げすぎた結果、ある軸としての突出が抑えられ個性が埋没してしまったこともあると思います。たとえば光学ファインダ。あるだけで嬉しいという者よりも、覗きにくさしか感じない人が多かったかもしれません。例えば画質。キレイではあるが、画質を生かそうとして絞りを振ろうとしても撮像素子の制約から望遠端では1段くらいしか変わらない。進化してそれが生き延びるためには、軸を留めてチビッとずつ伸ばすのでなく、軸を選択して切り捨てる・あるいは作り出すことが必要なことを感じさせたデジカメでした。

ただし、軸の切り捨ての中で、安さの軸だけ残した場合を進化とは呼びたくありませんが。

◇次回:いよいよ、自身初のデジタル一眼レフ。甘く考えてヤケドした。