まど猫スケッチ

カメラを手に感じてきた雑感を回想する

その27.K-5 ザ・甲冑野郎

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◆出会い

k20Dを出していたペンタックスから、まったくデザインの違うk-7が発売されました。コンパクトで直線的な引き締まったボディ。写真機らしさを感じて「かなり欲しい」と心が動きましたが、いざ触ってみると左手の親指の付け根あたりにオートフォーカス切り替えスイッチの出っ張りが当たるので握っているとちょっと痛い。

手を出さずにいましたが、そのk-7の外観をほとんど変えずに撮像素子をソニー製のCMOSに換装したk-5が登場しました。これも、どうせ痛いだろうなあ、と思いながら店先でいじってみるとやはり痛かった。だから買わなかったかというと、k20Dを下取りにしてバッテリグリップと一緒に購入しました。バッテリグリップをつければ、左手がオートフォーカススイッチと干渉することありませんし。と自分を納得させながら、何のための小さいボディなのか、本末転倒な使い方を始めました。

◆AFの進化:使いこなせる実感

 k20Dオートフォーカスをガチピンで決める事が難しく、純正レンズでさえおぼつかない。それに対し、このk-5はオートフォーカスの精度が格段に向上(体感:25年前EOS ELANの80%くらい)していて、それだけで普通に使える安心感を得ることができました。また、色味も派手ながら諧調が深いペンタックスの特徴は残していて、露出も安定していることから一眼レフらしい使い方として単焦点レンズをとっかえながらの撮影が多かったです。

主に使用したレンズはDA21mm、DA35mmf2.4、コシナの50mmf1.4プラナの3つ。このうち、プラナはマニュアルフォーカスなのでフォーカスインジケータが光ることによってピントを合わせるのですが、インジケータの合焦がいつも近距離側にシフトするのでそれを見込んで遠距離側にグイッとリングをまわして合わせていました。

また、これらのレンズは防水ではないので、全天候型レンズとして18-55mmWRの中古をカメラのキタムラで1万円で仕入れました。このレンズは描写の線が太いところと、鏡筒がスカスカで先端を持つとガクガクして撮影意欲が萎えるのが難点でしたが軽くて乱暴に扱っても心が痛まないということで荷物を軽くしたいときには持ち出してました。

◆のんびり屋さん

このk-5にはk20Dにない新機能としてレンズ性能の自動補正機能がついていました。周辺光量と歪曲収差の改善です。これは特にズームレンズで絶大な威力を発揮します。k-5を手に入れたい衝動の一つが、k20Dに17-70mmのズームをつけていたときに感じた中焦点域での歪曲収差の解消だったので、その性能には期待していました。

ところが。収差を補正する性能自体には文句は無いのだが、jpegでこれをやると処理速度がものすごく遅い。どのくらい遅いかというと、撮影のテンポが崩れるくらい遅い。なので、その対処として、RAWでとって撮りためたら一括jpeg変換の時にレンズ補正をかけるというやり方もしてみました。しかし、これだとSDカードの中にRAWとjpegが入り乱れてわけわかんなくなってしまうジレンマがありました。そこまでするくらいなら、RAWだけで撮影し、現像はカメラ内でなくパソコンでやるというスタイルに自然になっていく。あれれ、いつの間にかRAWで写真を撮ることが普通になってきている。 もしk-5の自動補正速度が速かったならRAWで撮るということには目覚めなかったかもしれません。 

なお、のんびり屋さんといってもk20Dほどではありません。k20DはRAW保存するにも遅かったが、k-5はそこは高速化がはかられていました。ただ、少し頭を使う処理になると、元来が自然の中の野生児として生を受けたk-5、少し不向きなところがあったようです。

◆強靭な肉体

見た目がかなり引き締まったk-5ですが、中身もギュウギュウの密度感を手のひらに感じました。ボディ内手振れ補正機構を内蔵しているためどうしても重たくならざるえない事情があるとはいえ、それだけでなく、ペンタックスは操作ダイヤルや視認液晶の大きさを妥協していないため、ボディの割に各パーツが飛び出そうなくらい大型であることも影響しています。そして、金属ボディの仕上がり品質が非常に高くパーツ同士の隙間がギチギチにつめてあるため、手に持っているときの剛性感が大変高い。以前にキャノンの初期のEOSを握ったときに感じた印象とは真反対です。

実際、小さい割に重さもあるので撮影中に重いか、というとそうではありません。それは、グリップの人差し指のところがえぐれていて、これにより写真機の重さを左手と右手にうまく分散できるからです。このグリップ形状もk20Dからの進歩が感じられる部分でした。

で、この高い剛性というか丈夫さを、実際に体感する機会がありました。

◆スッテンコロリ事件

城崎温泉、18-55mmズームとバッテリグリップを付けて温泉風情とやらをパチパチ写していた旅で泊まった旅館に、ちょっとした池がありました。旅館のロビーから錦鯉のいるこの池までは石段を踏んで歩いていくのですが、小雨が降っていて石の表面が濡れている上に、旅館の下駄ばきでテコテコ足を踏み出したものだから思いっきりスッテンコロリをしてしまいました。良く考えれば無謀な試みですが、小雨がふっているとわけもなく防塵防滴を確かめたい気持ちがムクムクと沸いてきて、すべての冷静な思考を停止させてしまうのでいたしかたない。とにかく後頭部が石に激突して割れるのだけは避けようと咄嗟に首をクイッと持ち上げるだけで精一杯で、腰やら腕やらをしこたま石段の角に打ち付けました。k-5はというと、これも石段にガチーンと打ちつけ、手を離れてコロがっていきました。もう、池にいた錦鯉たちはその音にビックリ。

しかし、そんな魚のことなどどうでも良く、こちらは体がまともに動くか恐る恐る確認してみると左腕の肘から先がしびれ、腰も痛い痛い。少しずつ動かしてみると、どうやら骨には異常がないようなので起きあがってk-5をとりに行きました。

すると、ボディにはぶつけたあとがつきましたが、レンズが割れることもなく無事だったのでびっくりしました。こちらがあれだけの衝撃を感じたのになんともない。試しにシャッタを切ってみたら、まともに写る。その丈夫さには感服しました。たぶん、プラスチックボディだったら確実に割れていたことでしょう。昔、ニコンのFGを首から下げていて落としたときにはズームレンズの中のレンズ群がバリバリッと割れたことがありますが、あれより大きな打撃を被ったのに関わらずレンズも問題なく作動する。

とはいえ、肝心の写し手の方が痛い痛い状態なので、その日は写真を撮らずに家路になんとか車を運転して帰ることにしました。途中、30分を走ったころに腰の痛みが限界に達し、それを抑える湿布を買うため大きなドラッグストアに駐車しました。こちらは運転席でダウンし、妻がサロンパスを買ってきてくれました。

ところが。こちらの車の方には向かわず、隣に駐車していた車のドアを開けたものだから、中で仮眠していたオバサンはビックリ。ボディの色が同じ白だったので間違えたようですが、あのときのオバサンの恐怖にひきつった顔は忘れられません。そのあと、こちらの車を認識し、妻からサロンパスを受け取りましたが、狭い車の中では思うようにズボンを脱げず。仕方ないので、車から降りてズボンを下ろし、患部にサロンパスを貼ることにしました。おろしたズボンの上の尻の部分でもっとも痛むところを妻と二人でアレコレ位置決めしながらサロンパスを貼っていると妙な視線を感じました。

なんと、尻を隣の車の中にいるオバサンにバッチグーのアングルでさらしていたのです。オバサンは凝視しつつ仰天。これ以上は言えません。

というような、微笑ましいエピソードと共に今でも思い出すk-5のタフさ。このときにペンタックスを使っていこう、と心に決めたのです。

◆k-5の先に見えたもの

重量バランスも良く、画質も満足できるk-5はようやくフィルムへの未練を捨てきるきっかけを与えてくれた写真機でもあります。画質でフィルムを振り返ると、k-5の前のk20Dが画素数1600万だったのに対し、超微粒子のフジカラーリアラコンタックスRXにプラナ50mmをつけてスキャナで読み込んだ印象は大雑把にいって600万画素くらいのイメージに感じました。その時点でもk20Dの方がフィルムカメラを上回っていたのですが、オートフォーカスや操作スピードが物足らなく感じてました。なにしろ、EOS100の米国版ELANの方がピント精度が高いのですから。

k-5になり、これらの機能的な不満点の改善は著しく、更にはFTbほどではないが金属ボディの心地よさもあり所有感も満足。フィルム特有のシャドウがスコーンと落ちた締まりある画像も、現像ソフトを使えば自由にできます。さらにk20Dにはなかったキーコントロール機能で撮影時から自分の好きなローキーに振ることもできました。

ただ。まだ自分の望む完成には途上にある道具の感はありました。不満点の例をあげると、ファインダの4スミが少し歪むところ。ピント合焦点とその前後のキレの唐突感(合焦点だけムリヤリにシャープネスをかけているような違和感)。RAW撮影と出先での現像が考えられるのにひとつしかないSDカードスロット。30年前のニコンにも及ばないストロボ制御の安定性。しかしこれらは、とにかく壊れないという何事にも代えがたい性能を身をもって体験した以上、k-5の先に続く残された宿題として大目にみてあげられる程度のことでした。k20Dからk-5への進化を体感すると、必ずやペンタックスは解決してくれるだろうとの信頼もありました。

 ◇次回:人気者「え、こんなカメラあるんですか~」「えっへん。」

その26.LX-5 もはや家電ではない

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◆出会い

k20Dというデジタル一眼レフを手に入れてしまうと、贅沢なことではあるがニコンのP5100を予備カメラとおくには少し物足りない部分が出てきました。それはRAW保存ができなかったことです。さりとて、k20DではRAWでなくJPEGばっかり撮っていたわけですが、RAWという3文字に何か特別な響きを感じていました。RAW保存が出来る小さなデジカメがあれば、それはかなり大人な機械に違いない。

そのうえで、見た目がカメラらしいこと、シャッターボタンが大きいこと、ズーム域の望遠側が90mmまであること、そして、電子ビューファインダを後付けでつけれること。究極的には、最初のデジカメショックを与えたLUMIXの一味であること。そんなこんなでLX-5を購入しました。

◆操作感

このカメラの絞りはどこで合わせるかというと、背面の親指のあたるところにダイヤルがついていてそこをグリグリすることで設定します。このLX-5の操作の感心したところは、そのダイヤルを一回押し込んでやると操作対象が切り替わって露出を補正することが出来たこと。つまり、通常は別々のダイヤルに割り当てる絞りと露出補正を一つのダイヤルに重ね合わせているが、その切り替えを別のボタンを押したりせずにそのダイヤルだけで出来てしまいます。これは慣れると結構便利でした。

反面、ISOとかセルフタイマの設定を変える十字型ボタンは使いづらかったです。背面の右側下にボタン類が位置するのは他のデジカメと同じなので問題ないのですが、ボタンに刻印してあるISOなどの文字が銀色のバックの上に色を差さずにそのまま彫り込まれているだけなので見にくいったらありゃしない。これは暗くても明るい日中でも見にくい。

それから困る点としては、起動がやや遅く、撮ろうと思った時にすぐ撮れないことが一つ。やはり手軽な大きさのコンパクトデジカメにはメモ機としての機能も欠かせないことを考えるとここは残念。その他では、ピントがシャッター押す前に先行的に合う便利機能がついているが、そのせいで実際にピントを合わせようとしたときに「合わせにいってるぞ」感がなく、絵を切り取った感触が希薄なこと。

つまり、コンパクトらしい小気味よい操作感を期待すると肩透かしをくらうデジカメでした。

また、レンズ保護がデジカメ恒例のヒャクメルゲ方式ではなく、レンズキャップのつけ外しで行うことからも速写性を狙ったデジカメでないことがわかります。このキャップは一眼レフのレンズのものよりよっぽど高級感があり、その分、紛失しないよう気をつけねばなりません。が、レンズの枠にとりつけて自動開閉する保護バリヤが別売で売られていたので、それをつければキャップのつけ外しも必要なくなります。

このバリヤは最初は喜んでつけてましたが直に外すことにしました。というのは、レンズが繰り出すときにこのバリヤが3つに割れる仕組みなのですが、そのカッコがいかつすぎるのが一つ。そして二つ目は電源offでバリヤが閉じた時に、3枚の板が一つの円に収まるその形、それがどうしてもゼロ戦のプロペラのように見えてしまい違和感がある。せっかく美しいライカレンズを隠してしまうのももったいない。結局、レンズキャップを付けたり外したりして使うスタイルに戻りました。

◆画質

 画質はk20Dと比べても遜色なく、むしろくっきりと対象を浮き立たせるという点ではこちらに軍配があがったかもしれません。さすがLUMIX。あのコンタックスRXに冷や水を浴びせたF-1の画質の方向を更に進化させていることがわかりました。

ただ、作為を持って写真を撮ろうとすると露出を補正したりすることになりますが、ダイヤルの操作性はともかく、背面液晶では日中わかりづらい。そこで。。。

◆ビューファインダ

 アクセサリーシューにポコッとはめる電子ビューファインダが別売でありました。もちろん購入いたしましたが、アクセサリとしては高い値段でした。

これを覗けたおかげで日中でも露出のかかり具合などが把握できるようになったばかりか、当たり前にファインダを覗いて撮るという写真の基本的行為に立ち返る事が、この小さなデジカメで出来るようになりました。ただ、ファインダ内の画素はかなり荒く、露出の濃淡と構図の確認、メガネをデジカメに押し付けての安定保持のためと割り切る必要がありました。また、このファインダは上にチルトさせることでローアングル撮影もできるようになってましたが、その恩恵にあずかるというよりは、顔をデジカメにおしつけて安定保持をしたいのにファインダがピョコピョコ上下してしまって困るという場合の方が圧倒的に多く、結局はアロンアルファで可動部をまるごと接着することで解決をはかりました。

ファインダで覗いて(滅多にとらなかったが)RAWで撮影保存でき、しかも明るい良好なレンズ。まるで一眼レフの世界を、この小さなカメラで実現できることはなかなか楽しいことでした。

残念なのはその見た目です。その大きな要因が電子ビューファインダです。どうしてもファインダというと、前にも後ろにも穴が開いていて、前からみたら後ろが見える、後ろがら見たら前が見える という当たり前のカタチが大脳の下の海馬に定着していたために、前からみてノッペラボウという風貌を受け入れることは難しかった。いや、今でも受け入れられていません。

ここに来ると、自分の依怙地な記憶との闘いになってくるのですが、どうしても電化製品くささがこのファインダがあるだけで助長されてしまったのです。しかも、上から覗いてみえるロゴには明るいナショナルの頃から親しんでいる電器メーカpanasonicの文字があるからなおさらです。

LX-5の形自体は、相当な写真好きの人達が開発したのだろうなと思わせる、非常に写真機っぽい雰囲気があるのに、ここにビューファインダが乗っかると一挙に家電製品に見えてしまう。電子ビューファインダというモノの成り立ちからして仕方ないことではあるが、いっそファインダを内蔵させたソニーのミラーレスみたいな形にしたらLX-5本来の写真機らしいムードを一変させることなく、真っ当な写真機ブランドLUMIXとしてすんなり受け入れられたかもしれません。

◆LUMIXの宿命

F-1の時はあれだけ冷蔵庫っぽい形をしてたのに、LX-5まで代を重ねると他の写真機メーカよりもひょっとしてカメラっぽいのではないかという造形に変貌しました。そうせざるを得ない事情があったように思います。それは、OEM供給していた別ブランドのライカの存在です。ライカの名前に恥じないカタチや性能を実現するために、同じ部品を使っているLUMIXもカメラっぽくなってきた気がします。そして、それはとても良い効果を今までもたらしていると感じるので、この両社の関係が今後も続いて欲しいと思います。

後ろにライカが控えて妥協できない製品づくりをしているためか、LUMIXのデジカメには凛としてスジが通った雰囲気があります。ただ、Panasonicの文字だけは疑問。この文字があるとどうしても家電のイメージが沸いてしまう。字面がSONYとか4文字なら良いが、Panasonicというのは写真関係ではVoightlanderとHasselbradと同じくらい文字が多く、たとえ薄く書いても目立ってしまう。今ではLUMIXとしてブランドが確立できたのだから、そろそろ底面のみにマークするとかできないのでしょうか。ということで、イラストではpanasonicを書いたままにしましたが、実物の方は紙ヤスリで削って文字を消しました。

最後に、ライカ版との大きな違いをいうと、右手保持を助けるグリップ。ゴムグリップの存在です。ライカの方には出っ張りもゴムもないので、恐らく持ちやすさでいったならLUMIX LX-5の方が勝っているかもしれません。

ただ、このLX-5のゴムグリップには難点があって、しばらくするとグリップの上側がペロリペロリと剥がれてきました。接着剤でくっつけて補修したりしてましたが、ゴム自体も伸びるのか、元の形にはおさまらず。ライカ版が採用しなかった本当の理由は永く使われることを考えてこのような不具合が起きてくるのを避ける目的があったためもしれません。

LX-5は綺麗な写真を収めることができ、F-1のようにバッテリが死ぬこともない。LUMIXの進化を感じ、またこれからも進化し続けると期待したくなるデジカメでした。で、何を期待するかというと。全体的なレスポンスの向上、それがあればLUMIXを手に次なるカルティエブレッソンが生まれるでしょう。

◇次回:ペンタックス 人間より頑丈なキカイ。であった。

 

その25.K20D デジイチ難しい

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ニコン様のご乱心

一眼レフ。レンズを交換することであらゆるものを撮影できることが魅力。それはレンジファインダも同じように思えますが、画角の変化や偏光フィルタの効果を覗いただけで確認できるのは一眼レフならでは。プレビューボタンを押せば、絞りによる違いもわかる..というかわかった気になります。

一方、デジカメ。写したその場で、気に入った出来か そうでないかを知ることができ、いまいちと感じたならばすぐにポイできます。現像に関わる手間も費用も掛かりません。そして、写したモノを劣化させることなく情報化して使いまわしするのもラクです。

そして、一眼レフのデジカメ。ここまで来ると、レンズ交換や豊富なアクセサリによってあらゆる写し方を試しながらその場で良いものを選び残すことができる。結果の満足度を優先することからすれば、究極の写真機ということになります。それはわかっているのですが、フィルムを介さない有り様にはパソコン周辺機器のようなイメージが付きまとい、購入にはなかなかふんぎれずにいました。ミラーがバシャと上がった空間の先には太陽エネルギに化学反応するフィルムというナマモノが無いと、あれだけ大仰な形とのバランスがとれないような気がしていました。

ところが、フィルムで撮る一眼レフがいよいよ無くなってきただけでなく、フィルムをジーコジーコ読み込んでいたニコンのスキャナが、マイクロソフトの最新OSであるVISTAに積極的には対応しない姿勢をみせ始めてきました。なんとか誤魔化してジーコジーコしていたわけですが、カメラの雄ニコン様からしてフィルムからデジカメへの移行を進めていることにショックを受けつつ、ここはもう切り替えるしかないと腹を決めました。2008年の頃です。

◆出会い

そう決めたなら、カメラ業界の方向をお決めになられるニコン様の一眼レフを、とは思いませんでした。理由はカッコがどうにもいやはやイカしてない気がしたからです。ではキャノンのEOSは?というと、ELANの頃の良いイメージは持っていたもののEOS7の視線入力をめぐるcold warを経て、「何も儲けさせて差し上げる義理は無いではござらぬか。」と胸の中の侍が言うのでこれまた却下。

第一候補としてSONYのα700があがりました。①まずもって、カッコ良い。②手振れ補正をボディ内に内蔵してるのでレンズを小型にできる。一眼レフのレンズはオートフォーカスに対応した時に小太りし、さらにデジタル撮像素子に光を広げずに届けるために恰幅が良くなり、そのうえ手ブレ補正機構まで内蔵することで最先端メタボ野郎(人間にもいる)になってきていたので、少しでもスリムであって欲しい気持ちから、手ブレ補正だけでもボディ内蔵というのは魅力でした。③Dレンジオプティマイザという諧調拡大機能がある。デジカメ画像の白飛びはコンパクトデジカメを使っていて目についていたので、それが緩和されることは素直に嬉しい。④カールツァイスレンズとの親和性。このネームバリューについては京セラTズームで神話が崩れたものの、あのプラナーの味が蘇るのでは?という淡い期待があった。

ということで、α700一択で業販店に向かったわけですが、帰りに手にしていたのはペンタックスk20Dでした。

それはなぜか、というとα700のボディを握った段階で「あ、これは違う」と悟ったからです。写真機はただシャッタを押せばいいというものでなく、あれこれダイヤルをいじることになる。そうせねばいけないということでなく、そうすることが楽しいからいじるのですが、それがα700ではしっくり来なかった。人差し指が大変窮屈。自分の手のつくりと違う人が設計したのだと感じました。ならば写真機への向き合い方も違うのでは、と。

その横のブースにあったk20Dをいじってみると、こっちは当初その存在すら知らなかったのに手に吸い付くようにすんなり決まる。そこにあったカタログをみてみるとα700同等に先に挙げた②ボディ内手ブレ補正③諧調拡大機能の二つもついているご様子。そして④、カールツァイスではないがエスピオミニで驚愕したヌケの良いレンズ、あの描写が一眼レフで揃うかもという期待。 気づかなかったがα700では外された上部の情報液晶が鎮座しておりなおかつ見やすい。 オオッとなりました。

ただ。①のデザイン、これがモコモコしていてカッコ悪い。特に上からみたり横からみると、何だろうかこの物体は という気持ちになりました。 しかし、手にとると大変しっくり納まる。「装束が今までのカメラの延長である必要はなかろう、これも時の流れ、直に慣れることよ。」と、これまた侍の一言に押され、18-55の標準ズームと共に購入しました。

いつも気にする画質については、エスピオミニの記憶だけを拠り所に、悪いはずはないと自分を強引に納得させました。

愛してやまないニコンFG形とはほど遠いが、それよりも手の納まり感を優先しました。ここの相性が合うならば、写真機に対する考えも近い設計者によって作られたものだろう と思ったからです。設計者の考えは、そのデジカメだけで終わるのでなく、その次にも、そのその次にも受け継がれるものなので、握った時の相性にかけてみました。

◆カンタンに写せるものではない

 デジカメというのは、カメラ単体でなく昔でいうならカメラとフィルムの合体系。一眼レフになると、更にその先の現像調整暗室まで充実している。一台の中に凝縮している分、一台の中でアレコレ自分に合わせていじらないと思い通りの結果はでない。

ということをコロッと忘れ、FG→EOS ELANでラクにキレイに何でも撮れるようになったように、デジイチデジタル一眼レフ)では更に楽チンに撮れるものと思っていました。そのくせ、キレイにするための設定には耳知識を仕入れてきて拘り、adobeRGBに設定したりファインシャープなる精細化処理をかけたりしてイザ写してみたところ...色がくすんで像もくっきりせずキレイではない。

ディスプレイもプリンタもadobeRGBに対応させていなかったので、これは通常のsRGBに設定し直してくすみは消えたものの像のぼやけた感じは残っていました。特に、屋外の晴天でコントラストも明確なシチュエーションで。いろいろわかってきた中で2つの理由が浮き彫りになりました。

一つは、ピントの精度が甘い。ピント合わせを自分でせずにK20Dに任せている以上、合焦の早い遅いについてはそういうものだと思い気になりませんでしたが、ピントの甘さは15年以上前のEOS ELANよりも劣るレベルでした。k20Dのメニューにはピント位置微調整という項目があり、それで合焦の位置を前後に調整したつもりでも、撮影する対象・撮影する距離によってはズレる。どう対応したかというと、一枚とってはすぐ拡大してピント位置を確認し、マニュアルでピントをずらしまた拡大してピント位置をさぐる。たまたま手にした個体だけの問題だったのかもしれませんが楽チンどころの話ではない。実はEOS ELANも同程度に甘さがあったのかもしれません。フィルムの像をスキャナで取り込み拡大するとピントの甘さよりもフィルムの粒子の荒れの方が目立ってくるので気づかなかったという事もありえます。仮にそうだとしても、15年分の進化を「より楽チンに」の方向で考えていたのでがっかりしました。

もう一つは、画像全体にうっすらと黒い粒がノイズのように乗っている。そう言っても、そうでないという人もいるので主観の問題かもしれませんが、例えばニコンの当時の作例写真などはデジカメらしくフィルムの粒子はなくツルツルしているのに対し、k20D は粒子のかわりにゴマよりも小さな胡椒の粒がところどころに浮いていました。これが像の透明感をやや損なわせている一因に感じました。

ついでに、組まれたキットレンズの18-55mmズームについてふれます。フィルムカメラのレンズのように周辺光量がドンと落ちるとか、広角側でギュニュニュと歪むことは無いにしても、解像度が今一つで線が太かった。そして、望遠側に伸ばした時の鏡筒の先がフカフカ動くのもEOSにつけていた28-105ズームから機構的に進化してない印象を受けました。レンズついでに言うと、単焦点として買ったシグマの30mmF1.4との組み合わせが、いやあ、凄かった。ピントは甘いどころか前ピンすぎて全く合わない、露出は絞り値によってマイナスやプラスに大きく振れる、つまり使う以前の問題。これはシグマに個体を送り、ピントだけは治って帰ってきたものの、それまでの期間の撮影機会が奪われたためペンタックスに責任は無いとはいえデジイチを扱う上での難しさを痛感する一因にはなりました。意気揚々とk20Dを伴い出かけた東尋坊の写真は今みても悲惨な像として定着しています。

それでも、レンズを17-70F4ズームに変えたり、シャープネスを初めとする画像処理の設定を施行錯誤するうちにようやく自分の撮りたい雰囲気の写真が撮れるようになりました。ただ、デジタルらしいパキッとした立体感は、その17-70F4ズームの描写の傾向からしても得られたとは言えず、エスピオミニの延長でペンタックス画質を勝手に期待していた心はブラリンコと宙を漂うしかなかった。

デジイチは難しかった。それとも、ペンタックスデジイチが難しかったのでしょうか。

◆フィルムとデジタルの一眼レフ:向き合い方が変わった

フィルムカメラの時は、見た光景だけでなく時間を写しとめる という気持ちが強かった。特に一眼レフには、確実に時を止めきることを期待しているところが心の内にありました。

これがデジタルの時代になると、時をとめる道具は携帯電話のカメラ機能でもタブレットでも良い、カメラでなくても良い。わざわざ重い思いをして持ち運ぶデジカメとしては、相対的に見た光景をより綺麗に残すことへの期待が高まってきました。

◆綺麗 を目指して無いものねだり

何をキレイというかは人によって千差万別なので、画質のパラメータを自由にいじれるようにあらゆる設定項目がk20Dにも用意されていました。ただ、そこまで用意されていても無かったものにキーのコントロールがあります。フィルムのような暗部がストンと落ちた像をデジカメの中だけで手に入れるには、ローキー側に触れるパラメータが欲しかった。

また、湾曲収差補正も欲しかった。というのは、良く使う画角は相変わらず35mm判でいうところの45~55mmの標準域なのですが、これがつけっぱなしにしていた17-70F4のズームだと湾曲が大きい。レンズ側のいろんなムリを抑えてこのような設計に落ち着いたとは想像できるが、デジタルなのだから像を結んだあとにまっすぐになるような補正をk20D内でかけれたら嬉しかったのですが、生憎その機能はまだありませんでした。

そして、キレイな像をデジカメの中だけで完結させるのか、という課題。RAWで撮影し、あとで現像ソフトで好みの画質に追い込む、いうなればネガフィルムの現像みたいな方向に行くか、それともポジフィルムのように撮影時から出来上がりを意識してパチリ=像が完成というJPEG保存に行くか。スキャナでジーコジーコすることに慣れていた身としては、当然にRAW撮影派といきたいところでしたが、k20DでのRAW保存はJPEGに対しベラボーに時間かかるので躊躇しました。

k20DにはデフォルトでJPEG保存しておいて、あとでやっぱりいじりたい画像が撮れたと思ったらバッファに像が残っている間にRAWにも追加保存できる機能がついていました。一見便利なようですが、ファイルの中にRAWとJPEGが、それも同じ光景で併存すると何が何だかわからなくなるので結局使わず。k20DではほとんどJPEG保存の設定で撮影していました。RAW保存がもっと早くできないか、といつも感じていました。

このように、K20Dは使うほどにこうあったらいいのにという部分が出てきてたのですが、それは逆から見たら、どういうデジカメが自分にとって望ましいかを体験を通じて教えてくれる先生の役目も果たしていたわけです。

◆それでもペンタックス

思い返せば不満ばかりが浮かんでくるのに、2017年、今、同じペンタックスのk-3を唯一の一眼レフとして持ち歩いています。それは新機種が出るたびに必ず過去の不満足点を修正してくるこのブランドの恐るべき実直さに対する感嘆と敬意、それとk20Dの頃から続いている「諧調が深い」という画像の特徴にあります。RAWで撮影してみると歴然ですが、JPEGでも多少はわかります。諧調の上限方向に対し相当な余裕をとった像になっているので調整がし易いのです。これはかなり意外なことで、ペンタックスの画像は基本的に派手な発色をしているので諧調の調整は難しいと思うのですが、そんなことなくグイグイと現像ソフトでいじれる。撮ってからの楽しみがあります。

そして、手になじむ形状。これはk20D以降も変わりません。そして、レンズも小さいもの(というか昔のフィルムカメラのレンズサイズ)が多いものだから手から重心がはみ出すことは少ない。

結局、ペンタックスを使い続けている理由は何でしょうか。

他メーカのようにボディも肥大・レンズも肥大・ついでに価格もこっそり肥大 それがイヤならミラーレス というようなマジックをかますこと無く、手でこっそり握りシャシャシャと撮る、という小型一眼レフの旨味を今にして味わうことができることにつきるのかもしれません。キャノンでもニコンでも例えばkissのように小さいデジイチはあるが、あれは手におさまりこそすれフィルムカメラをいじっていた時の握る感触とは違う。軽すぎてつまむ感じに近い。レンズという宝石の付いた精密機械をあえて無造作に握り込んでいる快感に浸っていると、キャノンFTbを握っていた頃から自分の写真にたいする意識が継続していることを「ああ、根っこは何も変わってないのだな」と今なお思い起こさせてくれる。そこが嬉しく愛おしい。

◇次回:コンパクトデジカメ再び。パナソニックが先かLUMIXが先か。

 

 

 

 

その24.クールピクスP5100 正常進化

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◆出会い

エスピオE30を便利なメモ記録機として使っていましたが、もう少し見やすい液晶のものはないかと感じていました。画面に目を正対させなくても何を写そうとしているか見えるもの。そこで、広視野角をウリにしていたP5100を見つけました。

画面フォーマットに4:3だけでなく3:2が用意されていたり、光学ファインダを備えていたりと、フィルムを使っている時に近い感覚で撮影できそうな気がして、ヨドバシカメラで半ば衝動的に買ったのを覚えています。

◆出で立ち:大人のためのデジカメ

おおまかな形はエスピオE30に似ています。電池室、ストロボ、レンズ、これらのおさまるレイアウトが同じなのです。ところが、金属ボディの黒く硬質な塗装の品質、液晶の左右に振り分けられた各種ボタンの押し心地、メニュー階層の表示の仕方等は 当時のニコン一眼レフに連なるものであり、小さなお子様は手を出せないような威厳がありました。

特に液晶の左側に配したボタンは、最近では一眼デジカメでさえ余りみかけなくなったレイアウトですが、これがあるおかげで「両手で扱うデジカメ」としての品位が見た目から生まれ大人っぽさが漂います。右側だけにボダンが集中し片手で扱えそうなデジカメだとなんとなくスマートフォンに似た軽さをイメージしてしまうが、左手で操作することを前提にしているこの形は「吾輩は精密な超高級機械だから両手で大事に扱ってくれたまえ。えっへん。」がにじみ出ていて好きでした。実際、使いやすかったです。

この他にも、アクセサリシューがついていたり、35~124mmのズーム域で足りない画角に対応すべくテレコンバータやワイドコンバータをラインアップしたり、システム的な使い方も志向している点も大人の佇まいを感じさせるものでした。感じただけで、外付けのストロボをつけたりはしませんでしたが。

全体に黒や灰色を身に着けた大人の男を連想させるデザインでしたが、一つだけ趣味の違うところがありました。それは、シャッターボタンやダイヤルのヘリにメッキシルバが加飾されていたことです。シャッターがメッキメキしていると、写真の撮影をヨソの方にお願いしたときドコを押せばいいのか言わずともわかるので便利ではあるが、黒づくめの中でココだけ鏡のように光っていると安いネクタイピンをしているように見えました。ということで、このメッキ部分はマジックインキで入念に塗りつぶす。すぐ剥がれる、また塗る という不毛な作業を繰り返してました。

◆やっぱり 光学ファインダは嬉しい

小さいながら、このP5100には光学ファインダがついてます。目を正対せずに済む見やすい液晶があるだけでも大きな進歩ですが、この光学ファインダを残していることには別の価値を感じました。

というのは、光学ファインダから導かれる光景は、撮像素子という媒体によって一旦信号に変換されたものを2次的に見るのとはやっぱり違う。液晶画面では、見ている実体が平面であって立体ではなく時間も1/30秒や1/60秒といった離散的に分断されているので、「見ている」という感覚ではなく「どう写るか」だけに意識が集中し覗いている気がします。これが光学ファインダだと、ズームして画角を変えたりファインダそものの歪みがあったりすると実際に見ている光景と変わることは変わるが、それでも奥行きは奥行きとして連続的な時間の中で届くので「見ている」楽しさがあります。「見ている」というのは、目の前にある表の部分が目に届くだけでなく、ウラ側にあって目に届かないモノがあることを実感しているような感覚です。光学ファインダを少し横にずらせば、その見えない部分が連続的に見えてくることで、モノがそこにあることを認識しもっと覗いていたい気が沸いてくる。写ルンです。の簡単なファインダでもそうです。媒体を介在せず素通りであるため、モノを奥行きとしてリアルに認識している嬉しさや安心感があります。

P5100のファインダ自体のデキという点では、小さすぎて目を合わせるのが難しく、また、フレームの枠よりも2割増し以上の範囲が実際に写るなどフィルムコンパクトカメラのものに比べむしろ劣っている印象を受けました。しかし、この小さなデジカメの限られたスペースの中にあえて残したことに、ニコンというメーカが写真を撮る楽しさの中には「見ている」楽しさもあることを理解してくれている気がしました。

感覚的な話だけでなく実用的な面でいえば、背面液晶が日中の明るさの中で見づらい時に光学ファインダは重宝しました。ただ、そのことだけなら液晶ファインダがこの頃にあれば代用は効いたでしょうが、撮像素子を介在するゆえのホワイトバランスのズレ、これが大きすぎると違和感が撮影意欲の減退につながる事があります。

素通しで見たままの色が見える光学ファインダの価値は、前述のモノの奥行きウンヌンの話を持ち出さなくても、覗いた色をアレ?と思わず(=意識せず)光景に向き合える点にもありました。アレ?と思わなければ、見た時のスパークを鈍らせずに写真に直結できたからです。

◆いきついた進化のカタチ

このP5100は、写真を撮るための道具として、①小さく、②軽く、③キレイに撮れて、④覗く楽しさを残し、⑤品格があり、⑥価格が安い、とあらゆる軸に照らして進化したデジカメだったと思います。

しかし、それがキャノン以上の販売実績に結びついたわけではありませんでした。その理由として、写真機を求めるときの価値軸を広げすぎた結果、ある軸としての突出が抑えられ個性が埋没してしまったこともあると思います。たとえば光学ファインダ。あるだけで嬉しいという者よりも、覗きにくさしか感じない人が多かったかもしれません。例えば画質。キレイではあるが、画質を生かそうとして絞りを振ろうとしても撮像素子の制約から望遠端では1段くらいしか変わらない。進化してそれが生き延びるためには、軸を留めてチビッとずつ伸ばすのでなく、軸を選択して切り捨てる・あるいは作り出すことが必要なことを感じさせたデジカメでした。

ただし、軸の切り捨ての中で、安さの軸だけ残した場合を進化とは呼びたくありませんが。

◇次回:いよいよ、自身初のデジタル一眼レフ。甘く考えてヤケドした。

その23.ケンコーKF3 ウィンダム行け!

 

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◆出会い

東京中野のフジヤカメラで、何を買いたいでもなくポケ~としてたときに見つけたカメラです。ヤシカコンタックスマウントを持つケンコ-の名がついた一台。RXにもアリアにもない巻き上げレバーを見た瞬間、「そうそう、これはデジカメには絶対真似のできない楽しみなのだ」とバカボンのパパの声が聞こえ、2万円という破格に安いお値段にも背中を押され購入しました。

思えば、LUMIXの画質に仰天しフィルムカメラ存続の危機を感じていた時で、長い年月を記録してきたフィルムへの郷愁を必死につなぎとめようとしていたのかもしれません。

◆スペアボディ:「ウィンダム、行け!」

このカメラの特長は何といってもカールツァイスのレンズを高価なコンタックスを持たずとも使えることです。「写真はレンズが決める。」を確かめたくて、評判あるツァイスを手にしたいがレンズそのものも結構値がはるのでボディにまわす資金が限られるときに2万円というのは魅力です。ニコンやキャノンを使っている人が、どれどれとツァイスに興味をかられて手を出す時にも助けになります。

しかし、すでにコンタックスを持つ身にとっても別の意味でありがたかったのです。

コンタックスのカメラは、使ってみた経験の範囲ではありますが、フィルムに関わる機構に不安定な印象を持ちました。RXおよびRXⅡでコマ送りが安定しない問題があっただけでなく、アリアにおいてもフィルム蓋の開閉レバーが引っかかることがありどうもこの辺の設計が「当たり前の確実性」という意味で行き届いてない。不安だから、スペアボディを持ちたい気持ちになります。しかし、同じ設計思想であろうコンタックスのボディでは、確実性軽視(してるのではないか)の不安が収まることはありません。

その点、KF3は京セラの設計ではなく、おそらくカメラOEMメーカによる図面をもとに中国の光学会社が製造したカメラです。安くするために普段使わない機構は削れるだけ削り、その分、フィルムカメラの持っているべき「当たり前の確実性」がクリアになりシンプルに実直につくられている「ハズ」。まさか、巻き上げレバーみたいなド基本な機構が壊れることはない「ハズ」だから、なんでも電子まかせでない分スペアボディとしての確実性は担保されるだろう、ツァイスのレンズ性能で光景をフィルムに焚き付けることはできるという発想です。これは、モロボシダンが怪獣を目の前にしてウルトラセブンに変身したいが何らかの問題が発生し出来ないとき、「ウィンダム行け!」と代理をカプセル怪獣にたくした気持ちと似ている。地球を宇宙人や怪獣による破壊から多少の時間であってもふせぐという大役を担うウィンダムの姿は、頭にトサカがあったり目が黒点であったりセブンと少し似ている。これもRXとKF3の外見的な距離感と相似をなしている気がしました。もっとも、ウィンダムは電子頭脳を積んでいたり金属ボディをまとっているので、エレキを極力排しているKF3とはこの点で違いますが。

ボディの質感でいうと、貼り革模様は貼ってあるもののそのチリに隙間があったり、プラスチックボディの平面度がうねっていたり、というところが散見されます。そこに期待するカメラではないと思えばそれまでですが、そこに気を使うのがケンコーというフィルタメーカといえどもカメラを出すときの構えではないのか、とも思いました。下手をすると、本業のフィルタもそういう品質なのかと逆読みされないとも限りません。

◆巻き上げ に期待したこと

デジカメはフィルム自体がないので巻き上げそのものがありませんが、フィルムカメラも自動給送が主流になった2008年当時、KF3にある巻き上げレバーは非常に新鮮でした。

レバーが消えていった背景には、対象を見つけた瞬間にすぐ撮影に入れないとか、動くものに対し連続撮影ができないという理由があったと思います。しかし、それによって、一点ずつじっくりと撮影したい時のリズムも同時に消えてしまった気がします。

親指でジュリジュリジュリと巻き上げると、感性のポテンシャルも一緒にチャージされ、さあ写すぞ、という気概が出るのですが、それをモータが自動でやってくれるとポテンシャルの貯め所がないので、心構えのルーティンが省かれた宙ブラリン感があります。

KF3のレバーは、そのポテンシャルを貯めるという感覚を久々に想起させてくれました。巻き上げる時の感触は、巻き上げフィーリング最高と勝手に思っているFGのジュリジュリでなくゴリゴリというものでしたが、ルーティンであることに違いはありません。当たり前ですが、RXの自動給送のようにコマがずれるような問題は皆無でした。

◆「ウィンダム、戻れ!」

①ツァイスレンズを安く楽しめる ②コンタックスの持つ不安定性からの開放 ③巻き上げ時の感性ポテンシャルを励起 というこのカメラしかできないメリットを持ったKF3。 バシバシ使っておかしくないハズだが、フィルムを2本通しただけで使わなくなりました。 

余分な機能はそぎ落とした分(=余計なことに設計時に気を回さずに済む分)、カメラであるべき基本要件は確実だろうと期待した中で一つ残念なことがあったからです。

ピントが非常にあわせづらかった。いや、合わせられなかった。

ファインダの真ん中にあるスプリットプリズムの上下の境を合致させる昔ながらのピント合わせだが、この境がどこで合うのかが非常にわかりづらかったです。明るい太陽光のもとでさえ、合わせたつもりになるのに大変時間がかかりました。

これは、ファインダでは合わせたのに実際に撮影されたピント位置がズレる現象、絞りによるレンズの焦点移動の問題とは全く違います。合わせる時に、どこに上下合致点があるのか見えにくいのです。案の定、そんな状態で写した写真だからピンボケ続出。 巻き上げレバーをゴリゴリして貯蔵した感性のポテンシャルエネルギーは、ファインダでピント合致点を見極めようと四苦八苦しているうちにどんどん消耗してしまいました。絵を決める、どころの話ではありませんでした。

いままでのマニュアルフォーカスのカメラ、FTb、FG、newFM2、アリア、RXではピントプリズムの境目が見づらいなんてことはありませんでした。同じKF3を手にした人の 価格.com の書き込みにはピントが合わせやすいと書いてあったりするので、当方の覗き方とKF3のファインダスクリーンの相性がよほど悪かったためと思われます。スクリーンの組み付き方が間違っているとかスクリーン部品の欠損ならば覗いた瞬間にわかりますが、そんな気配はなかった。まさか、スクリーンのスプリットプリズムに人により合う合わないの相性があるとは想像もしなかったので、買う前にボディのチェックもせずに手にしたのが後悔されます。

ウィンダム行け!」のつもりが、フィルム2本で「ウィンダム戻れ!」になってしまい、その後に登場することは2度とありませんでした。セブンの信頼を得て3回も戦った本当(といってもこれも架空の怪獣だが)のウィンダムのようにはいかなかった。買う前にファインダを覗くことすらしなかった自分が悔やまれます。

ただ、今KF3を所有している方がいらしたら聞いてみたい気もします。それ、本当にピント合わせ易いですか? と。

◇次回:デジカメ大進化。光学ファインダ今なお懐かし。

 

その22.クラッセ 終着点

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◆出会い

デジカメlumixがみせた高画質に驚き、フィルムとして挑んだ京セラTズームがあえなく敗退(注:超私的体験)した後のこと。まだまだ負けないフィルムカメラがあるはずと信じ、手にしたのが富士フィルムのクラッセSです。購入資金にはコンタックスT3を売却して充てました。どちらも単焦点焦点距離もT3の35mmに対し38mmなので買い替える必要ないともいえます。というか、あれ、なぜ買い替えたのだろう。冷静に今考えると理由がわかりません。貼り革調のボディにフィルムカメラらしさを感じたのだろうか。とにかく、これが最後に使ったフィルムコンパクトカメラになりました。

◆デザイン

ダイヤルが多く、ボディに貼り革をしていることから、昔のカメラに近い雰囲気があるようにみえますが実際に目にするとそれほど懐かしさを感じないデザインでした。その一番の理由は、レンズの基部にあたるところが左右対称でなく、向かって左側が斜めにさがっているところ。そこには機械ならではの機能性が無く全体のまとまりを破綻させている気がしました。設計の自由度を誇示するかのようにいろんな形のデジカメが世にあふれた結果、人が落ち着くデザインの在り方が忘れられていた頃。なんで斜めの線?という疑問は消えずとも、当時においては特に悪いわけではありませんでした。

気に入っていたのは、前面に露出補正のダイヤルがついていること。視認性が良いだけでなく、慣れればカメラを構えた時の左手の当たり方で露出補正をかけているか否かがわかりました。 

カメラの大きさや重さはスナップを撮影するのにちょうど良く、ああ、これが普通のカメラの感覚だなと思いました。

富士フィルムらしい高画質

写してみると、解像度が高いというより、細かな線まで丁寧に拾う。それでいて色味もはっきりしていて濁りがないので、繊細で美しい描写が得られました。ティアラズームに似た描写でさらに画像のゆがみがない印象です。

時として周辺光量が足りなくなることを覗けば、ぱっと見たかぎりでは一眼レフで撮ったものに匹敵する画質です。T3と比較すると、色の分離がより明確であり細かな線が柔らかく乗るところに違いがありました。

同時に京セラのTズームも持っていたので、フィルムコンパクトカメラ同士で同じ被写体をとったりすると「これが同じフィルムカメラなのか」と唖然とするほどその差に驚きました。入れているフィルムが根本から違うのだろうかと思いたくなるほど、単に像がシャープだとか色がキレイとかいうことでなく、粒子感がまるで違うのですから。

◆一点、気になるところあり

しかし、写真1枚を集中し良くみてみると、一つだけ気になるところが見受けられました。それは、画像端の像の流れです。一度気になると たとえその範囲がすごく狭い領域の端に限られるとしても、中央の画質が素晴らしい分その対比として目についてしまう。しかし、やがて、それもレンズの味の一つと許せるほど全体の画質は好ましいものでした。

◆時代が時代だったら

もし、この2007年という時にデジカメがなかったなら、ズームではないが写りも操作性も良いカメラとして足跡を残せたかもしれません。ところが、すでにデジカメが実用的にも画質的にも広く行きわたった中で単焦点一本で勝負するのはきつかった。フィルムでないといけない必然性よりも、デジカメであることのメリットが、デジタルの情報親和性というだけでなく画質追及の面でも見え始めた頃だからです。例えば、デジカメなら簡単にホワイトバランスをいじったりモノクロにできるが、これはフィルムがしていたことをカメラが横取りしたようなものです。受光素子が小さくても済むのでレンズも小さい=大きなレンズの必要はない=安いガラス材料費で凝ったガラス形状をコスト内でつくれる。だからレンズ性能自体も向上している。暗いところでは、手ブレを我慢するか三脚持参しかなかったのが、ISO感度をカメラ側であげて対処できる。 集積回路はカメラを作動するだけでなく、シャープネスをかけたりノイズを減らしたり周辺光量を補正したりと積極的に画質に関わるようになりました。

画質追及を謳い、その性能を有するクラッセではあったが、画質はデジカメを完全に凌駕するほどではない、となると勝負が成立せず。あとは、他との比較など気にすることなくフィルムを愛し続けるオジサン達しかいませんでした。

◆最後のコンパクトカメラ

それでも、クラッセが最後のコンパクトカメラです。似た大きさのデジカメはあるが、それらはコンパクトデジカメであってコンパクトカメラではない。

カメラというのは、光をフィルムという別媒体にブチ当てる機械という認識のもとでは、ブチ当たる側のいわゆるCCDなりCMOSが別物でなく自分自身という製品はカメラでなくカメラ+媒体なので純粋なカメラではない。プリントするために中からSDカードを取り出しても、SDカードに光がブチ当たっているわけでないのでフィルムの代わりとはならない。という、独断的な定義づけのもとではデジカメはカメラとはいえないものなのです。さらにいえば、カメラというのは動作するものさせるものであり、画質を決める、というか光と戯れるのはレンズとフィルムです。そこにデジカメは集積回路をもって、積極的に光を制御するようになった。人の力の及ばないと思っていた光の戯れを、人の力で操作可能にしてしまったデジカメに対し、フィルムの化学反応をコントロールするにしても成り行き任せだったフィルムカメラとは光に対する畏怖の度合が違います。

なので、光を敬い、共に戯れることの楽しさを残した最後のコンパクトカメラ、それがクラッセでした。このカメラ以降、フィルムカメラは急激にしりつぼみになっていきます。 しかし、光を制御しきらないというフィルムの感覚は、裏からみれば全てを制御できると思いあがらない時代ならではの健全な思いだった気がします。

◇次回:もう一つのフィルムカメラ。老眼にはきついカメラ。でも、実は安くしすぎたせいでは。疑念晴れず。

 

その21.オプティオ どこでもメモ

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◆出会い

趣味とは別に、仕事で記録を撮る道具としてパソコンとの連携がラクなデジカメを探していました。そのときに、このオプティオを選びました。何が決め手になったかというと、パソコンのディスプレイと同じVGAXGAに相当する記録画素数があること、専用の充電池は要らずに乾電池やエネループで作動し一回電池を詰めたら200枚はそのまま撮れること。

パソコン文書に載せることを前提とした写真では、画素数が多すぎるとかえって余計な手間がかかってしまうこともあるので、XGA程度の少ない画素での保存にも対応できるのは有りがたかった。記録にかかる時間も短くて済みます。

また、電池に目を向けたのはこれまでのデジカメ2台の苦い経験に基づくものです。最初に買ったサンヨーのマルチーズは、XGA画素なのは良いとしても背面液晶で確認したりしてると、30枚いかずに電池切れに遭遇。次のpanasonicのlumixは専用の充電池(あるいは充電回路)がすぐにいかれてしまい何枚撮れるかさえバクチのような状態。どこにでも手に入る単三電池で安定して200枚撮れるなら、このような問題からは解放され記録撮影に専念できると思いました。実はそのようなカメラは別のメーカでもありましたが、ニッケル水素充電池への対応まで大っぴらに謳っていたのはペンタックスだけだった気がします。価格も手ごろでした。

◆操作感触:家電のようなペチペチ感

大き目のシャッターボタンは良いにしても、背面にある各種設定やコマンドに使う小さいボタンを押した時の感触はペチペチとすぐに底付きし、中身がスカスカのように感じるボディ剛性ともあいまってプラスチックの頼りなさを感じました。まあ、それでも誤動作することなかったので値段を考えたら仕方ないのかもしれませんが、ペンタックスの名がつくカメラは、その後の機種も小さなボタンの感触にはあまり拘ってない印象を受けることが時々あります。

全体的な操作感は、といってもあまり操作するところはありません。右手で支える手にしっかりおさまるグリップ(というか電池収納部のデッパリ)があるおかげて小さく軽いカメラながら落とす危険性はなく、片手だけでも不安なく扱えました。

◆プロの技法:ノーファインダ撮影

このオプティオには目で覗くファインダがありません。携帯電話にカメラ機能が付くようになってから、マルチーズやlumixについてたような光学ファインダを持たないデジカメが増えてきました。背面の液晶を見ながら構図と瞬間を決め撮影します。

それはそれで、カメラを目の前にヨイショと持っていく動きがいらないので速写には良いということをマルチーズで回想しましたが、それは光学ファインダを備えている余裕があるから気安くいえることでもあります。背面液晶だけで勝負となると、その性能や機能性を実用的に判断せざるをえなくなる。これしかないのだから。

で、オプティオはどうだったか というと 見づらい液晶でした。解像度が11万画素しかないとかサイズが2.4インチに留まるからではありません。これらの要素は作品を撮るのでなく「写ればいい」だけ目的にするのなら大して問題ではありません。

問題は、あまりにも狭かった視野角です。自分の目を液晶に真正面に持ってこない限りコントラストも色も飛んでしまった像にしか見えず、「写ればいい」としてもその対象すら良くわからないのです。しかし、記録を撮る場面というのは、大抵急いでいて片手でスチャッと写したいことが多い(=右腕を振り回している)ので液晶の真正面に顔が向くことがそんなに無い。だから何を撮ってるか良く見えない ということになりました。もし、バリアングル液晶なりがこの頃に存在し、液晶の方を顔に向けられればこういう問題は起きなかったかもしれませんが、そうでなくても今2017年のデジカメが普通につけている液晶であれば視野角は十分広いので対応できたと思います。

しかし、これはオプティオだけの問題ではなく、当時の小さなデジカメにはそういう液晶が多く、今だからそれを問題といえますが、撮ってた時は当然なものと捉えて対処してました。どのような対処かというと、ノーファインダ(正確にはノー液晶)撮影技法です。つまり、液晶で判別できないということにこだわるよりも、結果として写っていれば良いことに割り切れるよう自らの精神性を1ステージ高め、カメラのオートフォーカス自動露出をひたすら信じ撮影する。でも、ピンぼけがコワい時にはカメラ位置を少しずらし、押さえで2枚撮るというやり方です。このほうが、液晶が見えるように腕や顔をアレコレ調整するより早かったりしました。

ただ、昔はノーファインダ撮影というのは、見るモノを撮るのでなく在るモノを撮るためには自己の視覚が対象に及ぼす介在性をとっぱらい直観に基づきシャッターチャンスのみに身体を集中させる。それにより、写った作品の中に、見るを超えた在るがリアルに立ち上がる...といった不確定性原理をわかった風な孤高な巨匠ゆえに許される技法でしたが、「見えないから仕方ない 当たれば勝ち で バシバシ撮る」というのはだいぶ意味あいが違う気もします。また、まともに液晶が見れれば本当はこんなことしたくない という気持ちがあり、同じ撮影法ながら その精神性には相当な開きがありました。

ところで、今の液晶は視野角が広いのでこのような事は起こりませんが、それでも日中の晴天時には液晶が明るさに負けて全く何を写しているかわからない時があります。デジカメに限らず携帯電話でもタブレットでも。それでも、あちこちで写真が撮られている。絶対に見えてないはず、という環境下でも。ということは、ノーファインダ撮影を完全マスタしている人々が世界中に何億といるということで 本技法の浸透度には目を見張るものがあります。写ルンです。の簡便なファインダ通して撮影した方がよっぽど写真撮影の本来の方法に沿っていると思うのは時代遅れなのかもしれません。

◆マクロ撮影:まあ、苦労した

記録としての写真を撮っていると、時として近くの物を残す機会もあります。そのときには、背面ボタンのフォーカスモードボタンをペチッと押して切り替えると20cmくらいは近づいて撮ることができました。ところが、続いて2mくらい離れた物を撮ろうとするとピントが合わないのでマクロモードを解除しないといけません。マクロモードであっても遠景でもピントが合うようにはなっていないので、写すモノとの距離を目測してモードを切り替える必要がありました。これは結構厄介でした。

◆機能:ひととおり出来るが、やはり液晶が。。

 このカメラで撮影するときに、色合いといった画質を調整したり、マニュアルでフォーカスしたり、露出を補正したりと「自由に扱える」機能は一通り揃っていました。では、それを一枚一枚撮影するときにしていたかというと、露出補正すらせずカメラまかせでパチパチしてました。

どういう風に写すかでなく写れば良いで使っていたので凝ったことをする気がさらさら無かったせいもありますが、液晶を覗く角度を少し変えただけで明るさやコントラストが変化してしまうので露出やピントの細かな違いを判別しにくかったのも要因です。

エネループ御用達

このカメラの良いところというと、それはエネループが完全に使えた、ということです。これらのニッケル水素充電池は電圧が乾電池より低いせいなのか、使えない又はすぐ電池交換しないといけないカメラが当時は多かった中で、カタログどおりにしっかり使えたのは目的どおりでした。エネループを4本持っていれば500枚は撮れる勢いで、更にとりたければ先に使った2本を1時間でもいいから後の2本をカメラに入れてる間にそこいらのコンセントを借りて充電しておけば済む。特にモーレツな勢いでパチパチ撮る記録写真としては大変ありがたかったです。

また、このカメラには後追い録音という機能があり、撮影直後の写真を確認したときに、声をその画像ファイルに一緒に後から追加することができました。製品の写真を場所を変え体を動かしながら撮っている時、後から何を撮ったかわかるようにノートにペンでメモするよりも、このボイスメモ機能を使うとペンはいらないしカメラから手を放す必要もなく非常に便利でした。ただ、このようなことが出来たことがあまり知られていない。ちょっと残念でした。

◆画質について

最大で700万画素ではありますが、色彩コントラストの幅が狭いためかそれだけの解像度を感じることはなく、ハガキサイズ程度にプリントするのであれば300万画素のlumixの方がくっきりシャープに見えました。また、色が薄いというか軽く白飛しやすい傾向がありました。ペンタックスというと、フィルムカメラエスピオミニのコントラストのはっきりして深みのある写りの記憶があっただけに、この色の軽さは意外でした。そして、今の一眼レフのpentaxの色はやはりエスピオミニに近い発色なので、ひょっとしてこのoptioは自社製品ではないのかもしれません。

◆その後

10年前に手にしたカメラですが今でも手元にあります。乾電池が使えることを生かした緊急用というわけではなく、ただなんとなく残っています。今、こうして年月の隔たりを最近のデジカメと比べて思い起こすと、背面液晶の進化には目を見張るものがあります。プリントしなくても、さらにいうとパソコンに移植しなくても写真の面白さを楽しめるほどにキレイな液晶になりました。

逆にいうと、液晶はおおまかに像が捉え切れれば良いと思っていたこの頃は、撮った写真が永久にカメラの中に留まったり、逆に電波でどっかにピューッと飛ぶなんてことなどなく、フィルムの頃とおなじように写真屋さんでプリントして楽しむ、そんな気分がまだあったなあと思います。

◇次回:フィルムカメラ、最後を飾る珠玉の一台。