標準ズームのお話(2)オートフォーカス誕生の前夜
◆3倍ズーム 35~105
最初に買った標準ズーム36~72mmの欠点、それは最短撮影距離が長いこと。
そのために、いつもそばにいた猫のタケの写真をとるにはクローズアップレンズを付けねばいけない。まごまごして付けている間にタケはとことこと餌の方に行ってしまう。
その付ける外すの作法に辟易し、いつしか2倍ズームは35,50,100mmの単焦点3つに変わっていった。このなかで35mmと100mmはニコンの廉価版レンズであるシリーズEで済ませた。確かに安かったのは事実だが、この100mmについてはガラスコーティングが単相だったのではないかという疑惑を持っている。
レンズの反射防止コートには定評があるニコンだが、40年前は単相コートもあったのである。あ、黒歴史をばらしてしまった。
ええと。なんだっけ。思い出した。またズームを買った話である。
今度はレンズシリーズEではなくNIKKORの名を冠した35~105mm F3.5-4.5。
ニコンFAというマルチパターン測光を始めて搭載した新型カメラに合わせて発売されたような真新しいズームで、「これ一本で100mmまでいけるのか」に惹かれた。
35mmと100mmは購入時に下取りに出してしまったので残るレンズは50mmのf1.4。明るいというのもあるが、FGに付けた時の形がキマッていたので手元に残した。
実は、FGと35~105mmの合体姿はそれほどカッコ良くなかったのである。
◆3年後の変貌
それまでの36~72mmに比べて、3年たって買ったこのレンズの大きな違いはマクロモードを搭載していたことである。購入動機のもう一つの理由であった。
これは何かというと、鏡筒にマクロボタンというのがついていて、それを押しながら鏡筒を回転させると通常の焦点域よりも短い距離でも焦点が合うように内部レンズ群を動かせるという機構である。
別にニコン専売特許というわけではなく、どのメーカーのズームレンズにもワリとポピュラーに付いていた機構であった。むしろ、ニコンもようやく付けたかの印象があった。
36~72mmにもこれがついてればと思うが、このマクロモードは光学的にはムリをしているらしく、その性能低下をニコンは許さなかったのではないかと私は思う。
でも、ネガのL判プリントがほとんどの私にとっては、性能いわんや画質はプリント屋さんの腕というか現像液の新鮮さというか、もっというと店主のその日の気分、もっともっと言うとフィルムを出した時のアイコンタンクトが店主に与える印象が決定すると思っていたからマクロモードの性能云々などどうでも良かった。
そんなことよりマゴマゴせずにタケを撮ることの方が大切だった。そして、それが可能になったのである。
撮る時に焦点は目に合わせるので、猫の丸い顔のヒゲあたりが周辺になる。そもそも、実物の猫に触れていても「いやあ、この猫のヒゲは素晴らしい」というほどヒゲに注目しているわけではないので、その周辺が画質低下でグルグルしていたとしても私は気にならなかった。十分なマクロ性能であった。
そして最近、40年近くの時を経て私はあることに気づいた。これもニコンという会社のレガシーなのか、といたく感じ入った。
Zマウントのズームレンズ24~120mmf4である。
この回転ズームの操作感が、35~105mmのマクロモードをクククッと回していた操作感にとても似ているのだ。少し重め、そしてブレやガタが皆無の精緻な安心感。40年を経た感触がそこにはあって、このZレンズを操作するたびニヤリとする。
では、その40年間に自分は何をしていたのかというと、何もなしていないという意味ではここでも別の意味のレガシーがあるがソコはあまり追求しないことにする。
36~72mmと比べてこのレンズ使ってみて感じていたことをもう少し思い出してみる。
まず好ましかったことの1つ目、それは言うまでもなく3倍ズームになったこと。
望遠側が72mmであるのと、100mmに届くのとではだいぶ違う。その間には85mmという壁を感じる。
70mm、85mm、100mmは焦点距離としては僅かな違いに見えるがその3つ共に見え方が違うと私は感じている。そして、70mmと85mmの差の方が85mmと100mmの差よりも違う気がする。
70mmだと50mmのダラッとした延長のような感じが、85mmだと別の視覚を得た感じになる。逆にいうと望遠端が85mmまでであっても見え方としてはそこそこ満足できたかもしれない。でも、3ケタの100mmを超えるのは気分的に気持ちがいい。体重で3ケタを超えるのはイヤだが。
そのころ、コンパクトカメラにはズームレンズが無くせいぜい2焦点切替だったのでズーム域が伸びる=ほうら、一眼レフだからできるんだぞ優越感みたいなモノを私は持っていた。
しかし、今考えると当時においても一眼レフみたいなものを小僧のナリをして持っているのはどうしてもオタクにしか見えなかった事からして、一般人(コンパクトカメラ)に対するオタク(使えもしない一眼レフ)のひねくれた根性の裏返しに過ぎなかったのかもしれない。だって、撮るものがタケ、それも絵の出来はプリント屋の気分が決めるというならどっちのカメラでもいいじゃん。
もう一つ、好ましかったのは直進ズームの伸びる方が望遠側になったこと。
伸びる方が望遠というのは、感覚としてしっくり来る。伸びる方、その限界つまり105mmのまた先に、ますます伸びる方向があるという期待感を持たせてくれる。
これが36~72mmズームのように縮む方が望遠ってことになると、72mmより望遠たとえば200mmとかを仮想したときに、自分に向かうレンズはカメラ本体をぶちぬき私の心臓くらいに来る。そんなことはありえない。非現実な感覚がどうしてもあった。
そして、使ってから気づいたことの3つ目は開放f値が変動することの不便さ。
ストロボ撮影をマニュアルでするわけでもないし、日中の撮影も絞り優先かプログラムのTTL露光がほとんどだったので、露出の上での使いづらさはなかった。f値変動とはいっても、f3.5がf6.3になるわけではないのでシャッター速度もそれほど極端に遅くはならない。
では何が不便だったか。
変動そのものというよりも望遠端のf値が4.5と暗くなるということ。
さっき、f6.3になるわけでもないしとか言ってたのは露出についてはそうなのだが、ピント合わせについてはf3.5とf4.5とではだいぶ違った。
スプリットプリズムやその周囲のマイクロプリズムに陰りが出る頻度が急激に増えたのだった。f3.5までなら、ほとんど問題なくピント合わせできるのが、わずかにf4.5になるだけで陰りの出る場面が一挙に増えた。
ファインダーの中のプリズムでピントを合わせるという行為は、広角だとなかなか難しい。 多少ピントが外れていても、プリズムの上ではキレイにあっているように見えるからである。
そこで、望遠側でピントを合わせておいて広角側にズームするというワザを使う。なので望遠側のピント合わせは、どの画角で写真を撮る時でもいわばルーチン的に行っていた。
それが陰りが出て合わせづらいとなるといつでも使うワザというわけにはいかなくなった。あれこれと、プリズムの陰りが出ないように光に対するカメラの位置を変えたりとやることが増えたのである。しかし、これは使ってから気づいたことだから仕方がないことだった。
最後に、画質について。36~72mmより透明感がある描写と感じた。だが、これはプリント屋さんのオヤジと私との言葉を交わさないまでも深い信頼感が築けたということの方が大きい。お互いシャイだと打ち解けるのに時間がかかるものなのだ。
ただし、広角側の歪曲は明らかに改善していた。画角の歪みを直すことなどさすがにオヤジでもできないわけだからこれは確かである。
そして、「きれいな写真が撮れるかも」の期待を持った私は、とうとうポジフィルムデビューを果たした。コダックのエクタクロームのASA200で上野公園に出向いた。独りで。そう、オタク感満載で上野をほっつき歩いたのであった。
なるほど、ポジはネガとは一線を画す美しさがあった。感動した。
だが、それは反面、折角得たオヤジとのネガ現像コラボ関係を壊す危険性もはらんでいた。そうして幾多の人々との出会いを経て私は一歩づつ成長をしていたのかもしれない。(本当か?)
冒頭の写真は、大学を卒業するにあたり生協の一番安いプランでヨーロッパ一人旅をしたときのもの、最初の都市パリにて。カメラもズームも手に冷たかったことを覚えている。
以上がオートフォーカス誕生前夜、露出以外は何でもマニュアルの昭和50年代のズームレンズ事情であった。
おしまい。 22年10月1日