いい写真とはなんだろう
◆ずぅっと下手くそだった
キャノンFTbという一眼レフを父が使っていた。私にとっては、それが初めて24☓36mmフィルムを入れてのカメラになった。
FTbで何を撮っていたかというと、当時は高校1年生、その年になってもプラモデルが好きだった私は作ったガラクタの数々を50mm標準レンズで天井の蛍光灯だけを頼りに白黒撮影していた。
白黒であればフィルムも現像代も安かった。そして、色の要素がないので塗装のいい加減さを誤魔化せるという目論見もあった。
で、その当時の写りの方はどうだったか。
最短撮影距離が60cm(だったかな)、プラモデルを大きく画面に納めるためにその最短だけを使い、絞りも照明が暗いためにf1.4固定とくればシャープに撮るなんてことは全くもって無理。そんな知識も無かったころだから、我ながらなんて下手くそなんだろうと思いながら少しも上達することなくパチパチしていた。
今思えば、当時のキャノンFD標準レンズのもっとも不利な特性領域を使ってたわけだし、絞りをf1.4の開放にセットしても心許ない薄暗い蛍光灯の下では手ブレ出まくりなわけだからうまく撮れるわけがない。手ブレくらい数をこなせば減るかというと、当時は今の半分といって言いくらいの重さというか体重のガリガリ野郎にとってFTbはいつ持ってもプルプルさせるカメラでありフィジカル的な面での上達も全く無かった。
それでもブレ・アレの写真が一種凄みをみせる時があると勝手に錯覚するときがあり、「イヨー、イカすぅ! さすがスバルR2!」と一人悦に入る事もあった。時はこれから享楽弾ける80年代が始まるころ、こんな暗い高校生だったのかと今書いていて何ら性格的に変わっていない自分に驚いたりする。
そんな回想はさておき、レンズの収差どころか手ブレも被写界深度も知らずにとにかくピントさえ合わせればシャープな写真が撮れるはず、なのに何て下手くそなんだろう。それまで使っていたコダックのポケットカメラはピント機構がないからボケてるのはわかる、だけどピントをきっちり合わせたのに。
◆マトモへの脱皮
そんなブレ・アレ時期がある助言をきっかけに一変する。同じカメラとレンズでありながら、多少はマトモな写真=ブレも無くアレも少なく何を撮ったかがわかるシャープな写真に変貌したのだ。
化学を教えていた若い先生が「こりゃあ、手ブレひどいな。三脚使ってフラッドランプあてて距離を離して絞りこんでみたら。えらく小さく写るけど、あとで今以上にガッとトリミングした方がこれよりまだシャープでマシに写るぞ。」とアドバイスをくれた。それを聞いた私は、貯めた小遣いを握りしめ、初めて新宿西口のカメラのサクラヤを訪れスリックの3段三脚とランプそれにレリーズケーブルを手にして家に戻った。
最初にFTbを三脚にセットしたときは雲台の締め付けが緩く、FTbが自重で下がり「バコン」という音と共に三脚の足にレンズが激突した。「ゲッ」と焦ったがカメラもレンズも無事なことを確認し、改めてセットし直しフラッドランプを点けながら絞りをF11に絞り込みレリーズを切ってみた。カメラの露出計で出したシャッター速度だけでなく、その2倍4倍も切っておけと言われたまま数枚のスバルR2写真をおさめ(残りの枚数でトヨタ2000GTとかロンドンタクシーとかを撮り)現像屋さんを兼ねたクリーニング店に持っていった。
出来てきたプリントを見ると今までのようなブレがないことに興奮し手応えを感じた私は、プリントの枠の中でR2が写っている周囲だけをペンで囲み、またクリーニング屋にいって「ここだけネガを拡大してください」とお願いし、その結果を受け取るやいなやこれまた仰天した。粒子が少し目立つが、くっきりと写っている!
それまでの写りがピントをヘッドランプに合わせてもプリントしたらただの丸としてしか判別できなかったとしたら、この能登(先生の名前)方式ではヘッドランプとしてわかる、その後ろのフロントワイパー部分まで見えるのであった。
これを契機に、私はピントさえ合わせば良いという感じでヤミクモにパチパチしていたステージから、レンズとカメラで光や深度をどんな風にコントロールしていくか興味を持って体得していくステージへと移っていった。
しかし、白黒とはいえフィルム代と現像代にお小遣いを使うと肝心のプラモデルを買えなくなるジレンマがあり、高校在学中には能登方式以上の進展をみせることはなかった。プラモデルをくっきり撮りたければ三脚。これであった。
FTbではカラー撮影もしたことがある。東京の晴海で輸入車ショーをしていて、コダカラー3本を持って一人で激写に行った。当時すでにスーパーカーブームは終わっていたが輸入車という言葉の裏にあるヨーロッパそしてアメリカという至高の響きに弱かった多感な少年は夢のような1日を過ごした。しかし、全ての写真が露出不足で何も写っていなかった。当時ストロボをつけていたのだが、定められたガイドナンバーにおいて被写体に届く光量を増やすには絞りを開けるベシ!というところを、逆に絞りこめば良かれと勘違いしていたために起きた失敗だった。
ちなみに、FTbのピント合わせは中央のマイクロプリズムを見て行うのだが、その後の一眼レフカメラで主流になったスプリットプリズムよりも私にとっては合わせやすくソコで苦労したことはなかった。つけていたレンズが一本だけ、f1.4と明るかったせいもあるけど、2000年代半ばになってもピント合わせが超絶難しいスプリットプリズムを持った一眼レフがあったことを経験している。このカメラ、明るい単焦点をつけてもピントのプリズム合致がみづらいのであった。AF機構もないし、どうすんのコレという状態だった。
まあ、(写真だけでなく)いろいろ失敗しながら少年は大学に入り自分で買ったニコンFGを手にするころになると、少しだがマトモな写真が撮れるようになっていった。
少しだが。。というのはそうでなかった部分があるから。なにかというと、カメラの水平垂直を安定して保持する。縦位置で撮るとどうしても傾いてしまう癖があった。これを克服できたのは40才前くらいと世間一般からみればかなりの遅咲きであった。
ええっと。まとめると、わかってないままカメラを扱えばマトモな写真はとれない。
を、悟った。
そのマトモな写真とは、「写したいもの」がブレもなくピント外れもなくその姿で浮かんでいること。
そう思っていた。
◆脱皮しなくても良くなった
いきなり現在にワープする。1979年から2022年、平成をすっ飛ばして昭和からいきなり令和へと。流星号、応答せよ。で、応答したとする。
FTbに相当するのは今ならばEOSのR5やR6だろうか。私の使っているニコンに無理やりあてはめるとZ7Ⅱと勝手に決める。この決定においてキャノンやニコンの了解はとってないけど、まあ良いでしょう。
そうすると、能登方式をたとえ今知らなかったとしても、当時思い悩んでいた下手くそ写真を生み出す事の方が逆に難しい。
カメラでいうと、
高感度に強いからシャッター速度を稼げるし手ブレ補正もある→ブレようがない。
ブレようがないから、更にf値を絞り込める。→クッキリ範囲が広がる。
レンズでいうと、
最短距離であっても最近のレンズならば収差補正がすさまじい→アレようがない。
その最短距離も短くなった→トリミング拡大のアレが減る。
解像する粒子というか画素の密度が高い→アレそのものが物理的に小さい。
ブレ・アレ下手くそ写真を経験することなく、いきなりマトモ写真が撮れてしまう。
加えて、ファインダ内に水準器を表示させて水平垂直を確認できるので40才前にようやく会得した三半器官自己調整奥義さえ必要ない。もしくは、たとえ傾いていても後で角度を補正できてきまうので水平垂直に気をまわす事すらしなくて済む。
Z7Ⅱってすごいでしょ、とか、やっぱりキャノンよりニコンの方が良いとか 何やら自慢やえこ贔屓のようだが、そうではない。
これって、光をとらえる構造には違いはあるけど結果として今のスマホでも簡単にできてしまうのだ。むしろ、スマホの方が撮像素子が小さく被写界深度が物理的に深い分、クッキリ範囲も広ければ手ブレにも強かったりする。
誰でも手にするスマホ、誰もがブレ・アレの下手くそ写真を経験することなく、いきなりマトモ写真が撮れてしまう。
いい写真の「いい」という意味が変わってしまった。
昔の自分は、「いい」は「マトモ」に相当被る部分があると思っていた。修学旅行に行って手にする当地での絵ハガキにある写真、金閣寺とか五重の塔とかあったけどあんな緻密でキレイで「マトモ」の極致にあるカラー写真は写真部の連中でも写せなかった。「これは大判で撮っているからさあ。」とか言い訳していたが、今ならスマホ、それに画像加工アプリがあれば私にもできそうだ。そんな現在においては、逆説的な言説が出てきた=絵ハガキ写真のような陳腐な写真でなく「いい写真」を撮りなさい、と。
全てが「マトモ」になった現在で、では「いい」とは何だろう。
◆人様の見方を参考にしてみる
「技術的にマトモか、技術的に下手くそか」とは違う、また別の「いい」という評価軸があるらしいのは知っている。
と思うが、まずは「いい」の意味がおいそれとはわからない。
そこで、「いい写真はこうだ。」と紹介している方の言葉の意味を理解してみることから始める。こういうときはユーチューブ。その中で、閲覧数が多かったのが 東京カメラ部 というところの動画であった。ここは応募してくる写真の中から優秀「つまり 、この団体がみるところの「いい」」写真を選ぶコンテストもしているらしい。
例えば、東京カメラ部 「名画に学ぶ。」 20分くらいで何編かにわかれている。
だめだ、私には無理だ。いくつかの構図例や色差による奥行き、主題・副題といったことを写真例と絵画例をもとにレクチャーしてくれている。それはそれで知識になるが、写真を撮るときにそのことを考えたことはない。そして、これからも考えないだろう。絵画と同じ方法論を目指したら、そもそも写真とは何であるかから離れてしまう。別に写真を撮らなくても、そして写真を見なくてもいいではないか と思ってしまう。
◆絵画と写真のちがい
自分がシャッターを押す時、それは気が向いたから撮るのであって、あとの仕上がりというか完成形をイメージしながらということはない。先に事物および光影があって、撮影後に現像してレタッチするときは撮影した時に向けた気持ちを思い出しその印象に近づけるようにしている。
時々、レタッチしている時に何らかのヒラメキがわき起こり、遊び半分で全く別のモノにいじることはあるが、撮影した時の印象とは違うモノを作っている点で、もはや写真という意識はなくコラージュを作っている感覚に近い。
絵画は描く者の意識の元に完成するが、写真は完成したものが目の前にすでにそれ自体として存在している。それをいかに留めるかということだと思う。確かに、鑑賞する対象としてはどちらも2次元なので似ているが、一方は後で完成する、もう一方は最初に完成しているという点で違うものだと思う。写真は、撮るというか目を向けた時がピーク、そのピークを経験したいがために、わざわざカメラを用意して失敗しながら撮り方を徐々に覚えるといった事をしてきた。結構な手間だと今思うが、それを全く感じさせない面白さがある。
◆いい写真とは
誰か顧客のためにというワケではなく、楽しみとしての写真撮影におけるいい写真、それが(あくまで私にとってではあるが)この絵画と写真の違いを見通す中で何となくみえてきた。
それは目を向けさせた光景・空気・事物がそのままに、意識の介在なしに想起してくる写真。
この介在なしにというのが難しい。例えば、その事物が消しゴムだったとする。あ、この消しゴムの形と質感と陰影の感じがいいなと思ってパチパチしたとする。そのときに、不思議なことに消しゴムが画面の真ん中にあるか、または少し右なり左なりずらしところにあるかでそのまま感が違ってくる。どちらがいいかはその時々によるが、この位置の違いだけでウマくはまらない時はモニョモニョした引っ掛かりが頭の中に介在してくるのである。
私にとっていい写真というのは、撮る時にモニョモニョ引っ掛かりを無意識に避けれているもの、らしい。典型的な構図とか、色のバランスとか そういうカテゴライズした時点で無意識ではなくなるから、このモニョモニョ回避の仕組みそのものは言葉にできないしそもそも思考には浮かんでこない。ただ、このハマった瞬間が写真の楽しさだと思う。そして、そういう写真の中には時々、撮影した時には気づかなかった奥深さみたいなものが通奏低音のように出ていることをプリントなり画面なりで発見して意外な気持ちになることもある。ちょっとそれが不気味な時もある。
今のカメラ、そこにはスマホも含むけど「マトモ」でない写真というのはなくなった。しかし、事物をカメラ越しに見つめた時に光景に意識が介入しやすいか、そうでないかはカメラによって違う。ヘンなことだが、ファインダやモニターの見やすさというより手の中のおさまり感の方が左右したりするのである。写りには全く関係なさそうなカメラそのもののデザイン、頭のとがり具合とかが関わったりするのである。不思議。
2022年9月4日。